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番う
夕刻、葛は市蔵の姿から腰元の姿になるべく、髪を解いていた。
ここのところ、女でいる時間が長くなってきたような気はしていたのだが、葛は鏡の前で髪を梳く手を止めようとはしなかった。
母の身代わりに散々に自分を嬲った市蔵は、碤三が見事に斬り捨てた。
あの男を斬ってくれ……どうしても口にできなかった葛の切望を、碤三は鍛え抜いたその技で、叶えてくれたのだった。
あれから早四年が経ち、最近はあの閨を夢に見て魘されることもなくなっていた。
それなのに、自分の奥底に佇む『女』が、少しずつ男の部分を凌駕しようしている。そろそろ碤三が来る頃だと思うと、つい、こうして念入りに髪を手入れしたり、小袖の柄を迷ってみたり……『女』を演じようとしなくとも、女になっているのだ。誰よりも強くなったあの大男に寄り掛かり、誰よりも頼みにしている。そして、いつでもあの背中を目で追ってしまう……。
「何をしているのだ私は」
葛は鏡台に櫛を置いた。この鏡も化粧箱も、宗冬が三条橋家を通じて京から取り寄せてくれたものである。思わず「可愛ゆらしい! 」と叫んでしまった葛を、宗冬は微笑ましく見つめていたものであった。
宗冬はもう、掛け替えのない弟であり、もっと言えば息子のような存在でもある。芙由子の遺命などとっくに超えている。遺命ではなく、それこそ己の命に代えても惜しくない程に、宗冬が愛しい、守りたい。
「しっかりいたせ」
将康から宗冬を通じて下賜された小袖に着替えて両頬を叩くと、葛はしずしずと宗冬の部屋に向かい、声をかけるべく膝をついた。
ことり、と中で音がした。
背中の帯の下に仕込んである両刃刀を確かめ、葛は息を潜めて部屋の中の音を探った。
葛の手で鍛えた宗冬は、既に何者かが潜伏していることに気付いている筈である。
すっと襖を開け、滑るように部屋の中に入った葛は、姿勢を正して書物に目を通している宗冬と視線を交わした。宗冬は既に敵の存在に気づいて手元に刀を引き寄せている。屋根裏、縁台の下、と宗冬の目の配りに葛は微かに頷き、火を消した。
ダーンッ!!
天井板が外れ、三つの黒い影が落下した。
葛は畳の上を転がるようにして敵の足の腱を薙いだ。それでも振り下ろされる斬撃から身軽に身を躱し、葛は立ち上がって悠々と三人の頸を断った。
宗冬は既に、障子を蹴破って庭に躍り出て、五人の忍と対峙している。
「どこの者だ、西道か、高田か」
「大方、高田の甲斐忍にございましょう。照素殿を討ち取った若の御器量を測る目的かと」
「ご苦労なことじゃのう」
やはり勝ち戦を経験した武将の度胸は違う。宗冬はしっかりと腹を据えて敵を睨めつけていた。
だが、二人が瞬く間に五人を切り捨てた瞬間、宗冬の居室から針が飛来し、宗冬の前に躍り出た葛の腕を捉えた。
居室には腰元姿の女が吹き矢を構えていた。尚も宗冬を狙うが、宗冬が居室に斬り込むより早く、大男が背後から女を斬り捨てたのだった。
「碤三、良かった、戻ってくれたのか」
宗冬の呼び掛けもそこそこに、碤三は葛に駆け寄り、針を抜いて躊躇なく口を当て、変色した血を吸い出した。
「傷口を焼く、宗冬、火を用意しろ」
「心得た」
「おい、若に何という口を……」
碤三の腕の中でぐったりとしながらも、葛はそんな叱責を口にしたが、やがて額に脂汗を浮かべるようにして気を失ったのだった。
宗冬と碤三に見守られ、葛は床の中でゆっくりと目を開いた。陽光が眩しく、葛が思わず目を細めると、宗冬が気を利かせて障子を閉めた。
「薬湯を煎じて参る。碤三、頼むぞ」
「おう」
「……そのような、勿体ない」
お前が行けと碤三に目で怒る葛の肩を、宗冬が笑いながら軽く叩いて部屋から出て行った。
「お前、明智領に行ったとばかり……」
「大事な大事なお頭様の危急を感じたからな。ほら、俺、強ぇ小頭だから」
「戯言を……私は、何日寝ていた? 」
「二日」
思わず葛が顎のあたりを指で触った。
「お前の顎にヒゲなんか生えやしねぇわ」
「あ、阿呆、私は別に……」
傷の痛みよりヒゲを気にする葛が可愛らしくて、碤三は思わず寝ている葛を覆い被さるようにして抱きしめた。
「おい、よせ……若が……」
「気を利かせたんだよ、あの小童。俺さ……お前が初めて藤森の里に来た時、桜の精かと本気で思ったんだ。あの時から、お前への気持ちは変わらない」
「……お前は真っ直ぐなままだ。いや、惚れ惚れする程に強くなった。私は、お前に寄り掛かる心地良さを知って……弱くなった」
「弱くなんか無ぇ、少ぉし、可愛くなっただけだよ」
気弱になって伏せられた葛の瞼に、碤三が楽しそうに口付けた。
「ってぇことは、お墨付き貰ったから、目一杯可愛がっていいんだよな」
「……もう、知らぬ……」
泣きそうな声を出しながら、葛は碤三の背中に回す手に力を込めた。
いつ死んでもおかしくはなかった二人の孤児……今はこうして、唯一無二の主人・宗冬の元で共に戦っている。
「……あの五歳の時、お前に出会えて良かった」
俺もだ、と碤三は葛の耳元で囁いた。
あの子供の時の出会いが、こうして互いの命を永らえることになったのだ。
「運命ってのも良し悪しがあるが……こんな運命なら、悪くは無ぇや」
「ああ、悪くはない」
葛を想う碤三の体温は優しく、暖かい。
安堵の眠りに誘われるようにして、葛は再び目を閉じたのであった。
桜公記・外伝 溺愛するなら強くなれ
〜了〜
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