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第28話
「なるほど。薬はどうやって手に入れた?」
「きっかけは去年彼女が事故に巻き込まれて失明寸前になったことでした。手術で治っている筈なのに、ときどき物がぼやけると言って……精神的なものだとの診断は降りていましたが、どうしても治らないと」
そこで僅かにキール=アルトハイムは苦しげな表情を浮かべた。
「不安に駆られて何にでも縋ろうとする彼女に『いい薬がある』と言って、僕の父が目薬を持ってきたんです。その目薬を差し始めたら彼女の様子がおかしくなって」
「取り上げなかったのか?」
「無理でした。最初以外、使うのは彼女自身の部屋でのみだったらしく誰も……気付いたときにはもう、あの悪魔の雫から彼女は離れられなくなっていました。精神的に縋り切ってしまった。そして僕の家でした、眠りに就いたのは」
「きみの前で、か」
「はい」
それはかなり衝撃的な出来事だった筈だ。
「残り少ない薬に不安を感じたのか、僕の目前で最後の数滴を使った……あまりに長く眠っていて怖くなりました。救急機を呼ぼうとしたのですが――」
「お家大事で親が止めたんだな」
「ええ。薬を持ち込んだのが僕の父だったものですから、ここの病室の手配も父が」
俯いたキール=アルトハイムは、膝に置いたままの枯れかけた花束のリボンに細く白い指を絡ませている。新しい花束と交換してきたのだろう。
訪れた沈黙の中、シドとハイファは顔を見合わせる。これで叩く相手はアルトハイムコンツェルンの会長に移った。
だが経緯を聞くとキールの父親自身ですら、目薬がどんな結末をもたらすか知らなかったことになる。話の流れからして本当に『いい薬』だと信じていたのだろう。
息子の許嫁に簡単に与えた点からも違法ドラッグと知り得ていたかすら曖昧だ。
しかしやはり大物であるが故に、捜査令状の一枚も簡単に取れる相手ではない。
AD世紀中世のサロンのような談話室で、これまたAD世紀中期の貴族らの如き上流社会に一介の刑事がどれだけ食い込んでいけるのか、暫しシドは考え込む。
重たい沈黙を破り、ハイファが憂い顔の青年に言った。
「あのう、当局に押収された物もあるから作動解除薬の生成に向けて動くべき機関はもう動いてるよ。ただ予想してると思うけど上流階級の一部にしか流れてないクスリだから早く解除薬ができるかどうかは分からない。すごく時間が掛かるかも……」
「そう、ですよね。覚悟はしています」
「でもね、手に入ったら真っ先にここに持ってくるから。約束するから。彼女の寝顔を眺めるのはつらくて淋しいと思うけれど、彼女を諦めないでいてくれる?」
顔を上げた青年は立ち上がると若草色の瞳を真っ直ぐ見たのち深々と頭を下げる。
「ところで本当に一曲いいかな、リクエスト」
「構いませんよ、僕が弾ける曲なら」
「じゃあエリック=サティの『Je te veux』を」
生真面目そうな灰色の瞳が少しだけ面白がっている色を帯びてハイファを見た。
「捧げたい人がいらっしゃるんですか?」
「そう。でも強敵なんだよね、これがサ」
ハイファの様子にふわりと青年は笑んで椅子に座った。少し位置を調整すると本より重い物を持ったことがないような長く美しい指が鍵盤を弾きだす。
緩やかに始まったその曲は音の強弱の変化こそあれ、キールが先程まで弾いていたような技巧を凝らした曲とは違い、単純と思わせるほど落ち着いた雰囲気だった。
時折うねりをみせるものの、盛り上り切らずにまた元の曲調に戻ってしまうのがシドには何とも、もどかしく感じられる。どうしてこんな曲をリクエストしたのかさっぱり分からない。
もどかしい。そう、捜査上でも日常でもよくある、もう少しで何かの事実に辿り着けそうな気がするのに、どうしてもそれが言葉にならず掴めない。真っ直ぐ階段を駆け上って事実を掴みたいのに、見え隠れしているのに、障害物や急に湧いた霧で傍のものも見えず方向さえも見失ったり。
そんなもやもやした思いのような感覚に似ている――。
ハイファが何を思ってリクエストしたのか全く以て分からないが、それほど長くないこの曲はそれでも所々の旋律をシドの耳に残して終わった。拍手には数人の入院患者が立ち混じっていた。キール=アルトハイムは堂に入った優雅な礼を披露する。
「何かあったら連絡してくれ、善処させて貰う」
青年とシドはリモータIDを交換した。シドの傍でハイファが微笑む。
「久々に生で聴いたよ。素敵な演奏ありがとね」
「健闘を祈ります」
廊下に出て歩きだしながらシドは肩を並べたハイファをチラリと窺った。
「いやに優しいじゃねぇか、薄愛主義者の別室員が」
「だって応援したくならない? あんなに一途に想ってるんだよ、応えてくれるかどうかも分からないのに。もしかして一生報われないかも知れないのにサ」
どうやらハイファは片想いの自分とキール=アルトハイムを重ね合わせたらしい。
「分かった分かった。それより目は離せねぇぞ」
「中央情報局から見張り回すよ」
「ああ、こっちも警備部から何人か寄越すように要請する」
キールと彼女の身が危ない。敵は本気で自分たちを消すつもりでいる。彼らは生き証人であり、シドとハイファ、それに別室の今後の動きによっては、それこそ根こそぎ何もかもを抹殺する気でいる筈だ。非常に危険だった。
待っていたエレベーターが到着し出てきた複数の騒々しい見舞い客らとすれ違う。
「……あのサ」
「俺も思った。ここじゃだめだ、護りきれねぇよ。マフィア団体様入り放題だ」
「セントラル基地の軍病院に移そうよ。あそこならミサイルが飛んできても受動警戒システムで感知する。基地ごとテラ連邦で一番の安全圏と言えるから」
「ああ。でもこれ以上の直接接触はヤバい。リモータ発振でキールと早急に話をつける。眠り姫と二人で暫く失踪して貰おうぜ」
「軍病院の段取りと移送の手筈は別室でやる。可能ならサイキ持ちもつけて貰うよ」
「ジャスティン=ガーラント師長の二の舞はご免だからな」
昏々と眠り続ける許嫁に届けとばかりに、だが遠慮がちに細くドアを開けて演奏していた青年。きっと幾度も活き活きとした花束を持っては通い、彼女にその花の命をも与えんとしてきたのだろう。
彼とその彼女を殺させる訳にはいかない、絶対に。
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