第9話

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第9話

 洟を啜りながらラフな綿のシャツとコットンパンツを身に着ける。黒髪がくしゃくしゃなのは分かっていたが、ハイファ如きに見せるために櫛を通すのも癪だ。  現れたシドを見てハイファは食器をテーブルにセットしつつ破顔する。 「じゃあ、今度はサ……」 「今度なんかない!」 「逆でもイイって」 「逆でもないっ、絶対にナイ!!」  全く、見た目も口調もなよやかな優男だがタチが悪い。そう、『タチ』といえば洒落にもならないが、こう見えて本当にそうらしいのだ、当時の周囲の噂に依ると。  記憶にない一夜にナニがあったのか、考えるだに恐ろしい……。  あのあと何事もなかったかのように笑顔でまとわりつくハイファに最初は幾度となく鉄拳制裁をくれた。それでも休日のたびに姿を現すこの男に対し次は無視を決め込んだ。  だがなおも笑い、返事がないのを承知で話しかけ、謝り続けるハイファに根負けし、とうとうシドは口を開いたのだった。  あれからずっとハイファとは友人関係を保っている。何かにつけて振り回されるのにも既に慣れていた。所詮は宇宙を駆け巡るスパイのバイタリティには敵わない。  だがあらぬ噂をバラ撒かれて諦めるほどシドも人間ができていない。  一緒にいて楽だと思ったのを激しく後悔した。人生最大最悪のストライクはこいつと出遭ったことだとこぶしを震わせ立ち尽くすシドに、ハイファは極上の笑顔で椅子を引く。何処の執事かと思うような仕草でシドに座るよう促した。 「取り敢えず、先に食べようよ」 「取り敢えずって、先って、何だ!」 「言葉の綾だってば。何もデザートに取って食おうなんて思ってないからサ」  冷えた躰を暖めたばかりなのにシドの硬直した身に鳥肌が立った。 「冗談だってば、ほら座って。あとでちょっと相談に乗って欲しい事があるだけ。これはホントだよ。だからスープ、もうサーヴィスしちゃうからね」  ほんの少しの声のトーンで相談とやらが本物で、ハイファが早くそいつを話したがっているらしいことにまでシドは気付く。やはり付き合いが深い、もとい、長いとこういった機微にも互いに敏くなるがあくまで友人だ。  シドは意地で表情を変えない。  しかし珍しいことでもあり、恋愛ごとでもない以上、仕事絡みと想像はついた。何となく気を削がれてシドは素直に腰を下ろす。こいつが改まって相談とは喩え仕事とはいえ、きっとロクでもない話という予感はしたが聴くだけならいつものことだ。  開封して五日も置きっ放しだった、気の抜けたような煙草を咥えてオイルライターで火を点け、ハイファのサーヴィスを待つ。キッチンでのシドはコーヒーを淹れるか酒を注ぐことしかできない。  一方でハイファはスパイらしく料理まで上手い。  この部屋に置いてなかった銘柄の酒瓶を手にしたハイファが、ワイングラスふたつに黄金色の液体を注いだ。食前酒のシャンパンまで準備するとはマメな男である。 「先、()ってていいよ」  紫煙をハイファの顔にマトモに吹きかけながらシドは応えた。 「かなりの上物らしいな。飲みたいのは山々だが後でいい。人の話を聞く時は素面じゃないと危ねぇって教訓を十代にして嫌というほど叩き込まれたからな」 「あーたもしつこいよねぇ」 「俺がしつこいだと? どの口で言ってんだ、ああ?」 「あっは、言えた。僕の愛は不滅、いい加減に堕ちてよ」  無言でシドは再びこぶしを固めた。本当に危険を感じてハイファもさすがに謝る。 「スミマセンでした。でもどうせ飲んでも酔わないクセに」  じつはシドはどれだけ飲んでも酔わない。そもそも泥酔し正体を失くしたために、恐怖のあの日があったのだ。だから人間離れした根性で体質を変えたのである。  何だかんだ言いつつも煙草を消したのち、ハイファが勝手にグラスに注いだ上物シャンパンの誘惑に勝てず、ひとくち飲んでから食事に取り掛かった。  日々、事件の渦中にいるか事後処理に追われているかのシドは刑事という仕事柄、全く構わないのだが、ハイファはプライヴェートでの食事中に仕事の話をするのを嫌うのでここで『相談』とやらは始めない。当たり障りのない雑談をしながら食す。  メニューは澄んだスープと果実ソースのかかった分厚いハムステーキ、白身魚のフリッターと付け合わせの温野菜・タルタルソース添えがたっぷりだった。生野菜が得意ではなく酸っぱいモノ嫌いのシドに合わせたチョイスらしい。  あとは皿ごとシールされたオニギリが待機していて、これには話が長くなる予兆を感じる。夜食までとはいったい何だというのだろう。 「あ、そっちにビーフシチュー作っといたから。今、食べないならあとで保存しとくよ。いっぱいあるからフリーズドライかパウチがいいかな」  料理のことなどシドはさっぱりだが、これらを自分が作ることを思うとぞっとするほど手間が掛かることくらいは分かった。前言撤回でこいつはヒマ人だと思う。  だが普段の食事はただのカロリー摂取であるシドにとって正真正銘のご馳走は素直に嬉しかった。元よりハイファの料理の腕前は知っている。
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