ジル・アズュラン(改稿済)

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ジル・アズュラン(改稿済)

◇◇◇  空には既に月が煌いていた。  昼間の焼けつくような日差しとは対照に、辺りには冷気が漂っている。  いつの間に倒れていたのだろう。  冷えた砂に体温を奪われ――死への誘惑のような脱力に、オレは何処か心地良ささえ感じていた。  抗いがたいその魅力に、ずっと身を任せていたかったが、直後、予期せぬ気配を感じ、ハッとして身を起こす……と同時に、オレを覗きこんでいたらしい気配の持ち主と目が合った。  オレを見下ろす、闇そのもののような黒い瞳。  白馬に跨るその相手の容貌に、オレは目を逸らすこともできないまま硬直した。  冷たい汗が背を流れる。  やっぱり、死神が迎えに来てしまったのか――と、そう本気で思ったからだ。  月光を纏い、青白く輝く肌と対照的な、夜の闇よりも深い漆黒の髪。  返り血のような色の宝石がついた金のサークレットが、前髪の間からチラリと輝いて見えた。  艶やかな長い睫毛に縁どられた眼差しが、何処か邪悪なものを孕んでいるように見えるのは、紅を引いたような形の良いくちびるが微かな笑みを湛えていたからだろうか。  その月魄のごとき美貌は、()を連想させるに十分だった。 「くそっ、魔物か……!?」  よろめきながら立ち上がると、美貌の持ち主はその凄絶ともいえる顔に似合わず、どこかのんびりした口調で不服そうに言った。   「誰が魔物だ、失礼な」    ぞくりとするほど低い声。  妖艶な美貌と華奢な体格からは想像もつかなかった声音に、オレは愕然とし混乱した。  え……?  男!?   「あんたは――」    何者だ?  そう問おうとしたときだった。オレは突如聞こえた高い声に、再び身をこわばらせた。黒髪の青年の印象が強すぎて、もう一人馬上にいることに気づかなかったのだ。 「ねぇ、ジル……!」  黒いフード付きのマントに身を包んだ幼い子供が、手綱を握る保護者を肩越しに見上げて叫んだ。  肩で綺麗に切り揃えられた金色の髪。深紅の瞳が印象的な、愛らしい顔立ちの子供だった。歳はまだ十歳に満たないだろう。  ジルというのは、この美貌の青年の名前のようだ。  名前まで女みたいだと、オレは思った。    こんな夜更けに、幼い子供を連れて砂漠の真ん中にいる奴など、どう考えてもまともではない。  警戒心あらわに身構えていると、反対にまったく無警戒な様子で馬を降りた青年は、幼子を抱き下ろし、馬を近くの枯れ木に繋ぎながらオレに問いかけた。   「君、剣は使えるかね?」  オレは確認のために自分の腰に手を触れたが、身に着けていたのは小さな短剣一つだけだった。  その時――。    シュルシュル……。  不気味な音に、身構える。  気づけばオレたちをぐるりと囲んでいるそれは、上半身が人間の女性、下半身が蛇という異形の魔物たちだった。 「あれは――?!」 「食屍鬼(レキーシャ)だよ」  食屍鬼(レキーシャ)と呼ばれるその魔物たちの妖しい美しさは、旅人を虜にするのに十分だっただろう。  しかし、ジルと呼ばれた青年の顔を一目見てしまったあとでは、もはやその魔力も通じなかった。 「そんな短剣一つでは不安だな。この剣を使いたまえ」  美貌の青年は、そう言って一振りの長剣をオレに差し出した。  どう見ても、食屍鬼(レキーシャ)よりこの青年の見た目のほうがよほど恐ろしい。何かの罠かもしれないと思ったが、今は彼を信じるしかなかった。  戸惑いながら剣を受け取り、ゆっくりと鞘から抜き出す。  剣身に、何やら文字が彫られている――そう思った瞬間、予期せぬ出来事にオレは目を見張った。  それは、炎だった。  紅蓮の炎が、剣身を包むように纏わりついている。 「これは――!?」  驚愕するオレの耳に、再び幼い子供の声が響いた。 「来るよ、気を付けて!」  その声を合図とするように、(なま)めかしいくちびるから牙と長い舌をのぞかせ、甲高い雄たけびと共に一斉に魔物が躍りかかってきた。   「……くっ!」  食屍鬼(レキーシャ)の攻撃は、恐ろしいスピードだった。  耳障りな奇声を上げながら、両手に握ったナイフを振り上げてくる。  オレは間一髪で身をかわして剣を振るい、その切れ味に目を見張った。  切り飛ばされた魔物の首は炎に包まれて地面に落ち、一瞬にして灰と化した。  それだけではない。疲れ切っていたはずの身体なのに、剣を握っていると何故か不思議と力が湧いてくる。  これはいったい――?  夜の闇の中、まるで炎舞を舞うように、オレは剣を振るい続けた。  やがて、敵は恐れをなしたのか、一斉にその場から逃げ去っていった。 「やった……」  肩で息をしながらそう呟いたオレは、剣を鞘に納めたとたん、急激な疲労感に襲われた。  そのまま、膝から崩れ落ちる。  誰かの声が聞こえたような気がしたが、もう目を開けていることもできなかった。  まるで砂に沈んでいくように、深い深い眠りが全身を包み込んでいった――。
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