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蜘蛛と蝶1
古書の匂いが立ち籠める薄暗い書斎に、血のような夕照が差している。幾重にも襞を重ねた緞子のカーテン。貴族の一家を描いたらしい絵画。蔓草の彫刻を施した大理石の暖炉。懐古趣味な書斎に並ぶ調度の数々は、前の持ち主が伊太利貴族であったというにふさわしい贅を凝らした品々であったが、真山龍一は、没落貴族の感傷も古美術的な価値もまるで興味が無いというふうな傍若無人さで、持ち込んだ近代的な事務机に向かい、受話器を片手に頬杖をついて広大な農地の写真に見入っている。
彼が下した撤退指令を受け、上海に潜入していた紅布社の面々がそれぞれの持ち場へ散ってゆき、屋敷は数名の側近を残すばかりであったが、茶色味がかった髪をきちんと撫でつけた神経質そうな横顔は、いつになく晴れ晴れとしている。
写真に写るフロリダの農地を購入して四年。管理一切を現地に任せ、ほとんど思い出すこともなかった、その温暖な気候に恵まれた豊かな大地が、柘と再会した夜から、にわかに桃源郷の輝きをもって彼の心によみがえったのである。
『河東だ』
受話器の向こうから抑えた声音が聞こえると、真山は薄手のニットに毛織の上着を重ねた痩せた背を、ゆったりと執務椅子に凭せ、持っていた受話器を耳に当てた。
「お手柄ですな、河東先生。一夜にして我々の計画は中断。撤退を余儀なくされた。世論を煽って警察を動かし、青幇を担ぎ出すとは、随分と頭の良い策士を雇ったようですな」
『文龍だな』
「大事なスポンサーも可愛いくらげも失って、正直破れかぶれといった心境です。せめて祝に盛大な打ち上げ花火を贈らせて頂こうかと」
『悪足掻きは止せ。貴様はもう上海から逃れられん。大人しく投降しろ』
「発火を待っている花火が、街に幾つあるか御存じか。それを全て打ち上げて、秋の空を焦がしてもよいのですよ」
真山は抽斗を開け、古い詩集を取りだす。河東の苦悩を他所に慣れた手つきで頁をめくり、古い写真に辿りつくやそれに向かって柔らかく微笑む。
「安心し賜え。我々は無益な殺生を好む下等な結社ではない。勝利を譲る換わりに土産を一つばかり頂ければと、御相談申し上げているのですよ」
真山は低く言って言葉を切った。受話器の向こうで重い沈黙が流れる。
『土産とはなんだ』
「貴方の策士を頂きたい」
『断る』
「切れ者らしくない発言ですな。大勢の無辜の人間が黄褐色の河に沈んだら、現内閣は時期を待たずに倒れますよ」
真山は鼻で笑い、指先で机を小突いた。調査の結果。妻も子も情人もなく、後ろ暗い過去も見あたらない河東平蔵のきれいな経歴で、唯一目を引いたのは東京帝大剣道部主将という肩書であった。日本を去った直後から、真山は柘の動向を調べさせていた。河東が主将をしていた頃、柘が在籍していたはずである。嫉妬を含んだ苛立ちにこつこつと叩く指に力がこもったとき、河東が重い口をひらく。
『二つ訊きたい。要求すべきは胡蝶の身柄ではないのか?』
「あれなど不要。処分して頂いて結構」
『ならば、もう一つ。柘を要求する理由はなんだ?』
「貴方の上官、柘尚一郎のことを気に掛けておられるなら、問題はありませんよ。あの男はとうに息子を捨てている。貴方が責任を問われることはない」
『文龍、なぜ人の情を踏みにじる。九年前と同じ事をして、貴様に何の益がある?』
「後輩思いのようだが、御自分の立場を忘れぬよう忠告申し上げる。今の貴方は祖国を担う特務の責任者だ。面汚しのジゴロが一人消えようと、貴方の守護する大日本帝国になんの損失も生じないはず」
河東の息づかいを窺いつつ、にやりと唇を歪める。
「猶予は一刻。英断を期待します」
低く威圧して受話器を置いた。喉の奥から、くくと笑いがあふれだす。人差指の先に接吻し、その指先を写真の柘の唇へと押しあてる。
「撤退するというのに、随分と嬉しそうですな」
ぎくりとして声の方へ眼をやる。いつから居たのか、黒い長衣を身につけた陶が、哲学者のような相貌に薄笑みを刷いて扉の前に立っている。
「北京へ行かれたのではなかったのですか?」
真山は平静を装い、柘との写真を詩集に挟む。
「農場経営でもなさるのですか?」
気配もなく肩ごしに声を掛けられ、肌が粟立つ。真山は無言で農場の写真を集め、書類鞄に収める。
「龍頭のお立場を、お忘れではありますまいか?」
背後に立ったまま、陶が冷やかな口調で言う。
「損害は微々たるもの。立ち上げたルートを手放すのは惜しいが、結社の懐を充分うるおわせたつもりです」
「くらげの始末はつけたのですか?」
「黒獅子の蒋に一任しています」
「きゃつの始末は?」
「あの男は分を弁えている。己の始末は己でつけるでしょう」
「ならば、胡蝶は?」
「貴方には申し訳ないが、あの裏切り者は龍頭の権限で切り捨てました」
「なるほど。ならば貴方の裏切りは、大龍頭の権限で、御父上に裁いて頂かなくてはなりませんな」
陶の言葉に、資料を集める真山の手が止まる。
「数日前から、貴方は亜米利加領事館へ数回電話を掛けている。結社が収集した列強国の軍事機密を手土産に亡命を企てるのは立派な裏切りと言えるのでは?」
「北京へ行かず、盗聴ですか。どうやら貴方は結社の益より、ふらふら飛びまわる頭の軽い虫螻の方が大切らしい。そんな貴方の腹の内を、大龍頭は知っておいでなのでしょうかね。どうです。回りくどい事などせず、虹口地区の大日本帝国海軍陸戦隊本部へ直接迎えに行ったらいかがです。なんでしたら、機関長の河東平蔵に紹介状を書きましょうか」
真山が不敵に微笑むと、陶が口辺だけの笑みを返す。
「貴方は冷たいお人だ。父を裏切り、結社を裏切り、哀れな弟まで切り捨てるとは」
「なんの事やら分かりませんな」
「妾腹など、弟ではないと? 確かに次々と産まれる弟妹達をいちいち憶えてなどいられぬでしょうが、肌の白い幼子のことは知っておいでのはずだ」
針のような光をたたえた隻眼が、真山の眼を射る。刹那、真山の眼前に阿片の烟に噎せかえる豪奢な中華様式の寝所が現われた。
『何人目の息子だったろう?』
側近に訊ねる父の声がする。寝台に巡らした朱の帳に灯籠の暗い火影がゆれている。
少年の真山は透かし彫りを施した紫檀の衝立へと近づき、声の方へと眼を向けた。寝台に腰掛けた父の膝に西洋人のような白い肌をした裸の幼子が座っていて、今にも泣きだしそな面つきで辺りを見まわしている。
『爺爺(おじいちゃん)はどこ?』
翡翠色の大きな眼に涙を溜めて幼子が問い、大人達がくすくすとしのび笑う。
『そんな者はいやしないよ。おまえは夢を見たんだ』
淫猥な笑いを浮かべながら、父が諭すように言う。
『うそだあ。このお家にいるんでしょう? ぼく会いたい! 会わせてッ』
『聞分けのないことを云うものではない。さあ、父と契りを交わそう』
父の高笑いの中、火がついたように幼子が泣きだす。衝立ごしに目を凝らし、真山はその場で嘔吐した。十一年前の日本へ向かう春宵の出来事だ。
「——あの柘という男があらわれてから、貴方は至上の情人に巡り逢えたごとく上の空だ。まるで胡蝶と同じ。兄弟というものは似た嗜好を持つとは聞いていたが、よもやそこまでとは」
陶が薄笑いを浮かべながら首を傾げる。
「……父と交わる畜生など……弟ではない」
真山は肩で息をしながら、声を絞った。幻惑された屈辱に身震いがし、込み上げる嘔吐感に口を塞ぐ。
「ほう。畜生とは手厳しい。しかしながら、それであの子を憎むというのは筋違いというもの。その畜生の交わりから貴方は産まれたのですから。それとも御父上に愛でられる胡蝶への嫉妬ですかな?」
「穢らわしいッ!」
声を上げた直後、激しく咳きこみ机にすがる。
「お言葉が過ぎますよ。誰よりも濃い張の血を受け継いだのは、他ならぬ貴方自身。亡命など止めにして胡蝶を取り戻し、御父上の許にお帰りになるのがよろしいと申し上げているのです」
「触るなッ!」
伸びてきた手を、真山は払い除けた。息を喘がせながら上着の下から拳銃を抜き、陶へと銃口を向ける。陶が憐れむように隻眼を細め、悠然と歩を詰める。
「詮無きことはやらぬが利口。あの男を得たとしても張の血から逃れることはできない。ましてそのお躯で、いったい何ができるのです?」
真山の痩せた頬が引き歪む。
「貴様になにが分かるッ!」
叫ぶと同時に引鉄を引いた。
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