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ある日。
仕事が終わって、夕陽とヒグラシの合唱を背に寮へ戻る途中で藪先生と出くわした。
麦わら帽子に、ステテコ姿。どうやら畑仕事の帰りらしい。怪我人や病人がいないときは暇だから、こうして畑に出ているという。「身体を動かさないと健康に悪いからな」と遠近両用の黒縁メガネで笑っていた。
「先生は本土で医者をやってたんすか?」
横を一緒に歩きながらふと尋ねてみると。
「ああ、大病院で救急外科を担当していたんだ」
と、遠い目をした。
「私の勤めていた病院は飲み屋街が近くてね。毎晩、斬られただの、殴られただの、拳銃で撃たれただの……夜勤は忙しかったよ。『常連』の用心棒もいてね、最高は22発の弾丸を摘出したこともある」
「あ、ああそれは……」
どう返事をしていいやら。自分も一時はクラブの用心棒でもするかと思っていたが、そんな甘い世界でないと思い知る。やめておいて本当によかったものだ。
「けど、先生よ。そんなヤツにしたら先生が病院からいなくなっちまったら困るんじゃねぇのか?」
そう聞き返したが、藪先生は「いや」と首を横に振った。
「そいつも、最後はビニール袋10杯分の肉塊になり果てたよ。店に手榴弾を投げ込まれて、周りを守るため自分から覆いかぶさったんだとさ。……死なないといけないのはお前じゃないのにと思ったよ」
……組同士の抗争に巻き込まれたのだろう。可哀想に。
「何で先生はこの島へ?」
とても藪先生が『前科持ち』とは思えないが。
「……太平さんは元々医大の薬学教授で私の先輩なんだ。造船業は定年してから親の跡目を継いだそうでね」
だから太平のオヤジは現場に出てこないのか。
「『こっちにきて手を貸せ』と呼ばれたんだ。平和な田舎暮らしはいいものだよ。少しばかり腕が退屈気味だがね」
と照れた笑みを浮かべた。そして。
「……私と太平さんには、夢があるんだ」
そう言いかけたときだった。
「おう、勝土か。ちょうどよかった」
背後から太平のオヤジがやってきた。
「お前さん、ここにきて何年になる?」
「……5年っすかね」
指折り数える。そう思うと、月日が経つのは早いものだ。
「ウチにはひとつ、不文律があってな」
オヤジが草履の足を止める。
「5年勤めきったヤツは自分の履歴書に『学校卒業後、ずっと安寧造船にいました』と書いていいことになっとる」
「そ、それは……」
就職活動先から問い合わせがきても誤魔化してくれるということだ。一種の自立支援というか。
「どうするね? お前さんは」
そうか。長く勤めているヤツをあまり見ないと思ったら、そういうこともあったのか。
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