【第1部】  第1話 不眠症

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【第1部】  第1話 不眠症

「綾瀬光(あやせひかる)さん、どうぞ」 「はい、よろしくお願いします」  この4月に某有名企業に入社を果たした僕。意気揚々と研修に励んでいたのもつかの間。どういうわけか、眠れない夜に苦労することになった。  研修では確かに緊張の連続だったけれど、友人も出来たし、嫌な先輩や上司もいない。昨今では新人も適度に甘やかしてくれるので苦労してるわけじゃないんだ。  会社で張り詰めた気持ちを解き、自室のベッドにたどり着く。さあ、朝まで寝ようとすると、全く眠れなくなる。帰りの電車では居眠りしてつり革から手が滑ることが何度もあったのにどういうわけだ。  明日のために寝ようとすると益々眠れなくなる。ようやく眠りについたかと思うと、目覚ましのアラームが鳴って飛び起きる。そんな毎日が続いた。  初めの内はそれでも休日になると一日中寝てたりで、貯金が出来るわけではないけど、なんとか誤魔化しながら仕事をしていた。けど、研修が終わり、部署に配属される頃になると、休日すら眠れなくなって……。  お酒も体質的に得意じゃないし、なによりどういうわけか、睡眠薬はどれを飲んでもさほど効き目がなかった。 「不眠症ですかね。一度心療内科に診てもらうのもいいかもしれません」  そんな悩みを抱えながら半年。会社の定期健康診断で、僕はようやく産業医に相談した。自分では他に不調はないし、病気という認識がなかったんだ。けど、産業医は僕の様子を見て思うところがあったのか、『眠れないんですか?』と尋ねてくれた。固く誓った割には、自助努力が足りないとは思う。  産業医は白髪交じりの男性医師。無造作に垂れてくる前髪を掻き上げながら、僕のために紹介先を探してくれた。優しいおじさんな感じの先生は、これと決めると紹介状をプリントアウトし、サインをしている。 「ここのクリニック、評判いいんだよ。まあ、このご時世でうつ病の社員も増えてるからね」 「そうですか……」  僕はうつ病による不眠症ではないと思うのだけれど、それでも原因は思い当たらない。やはり、心因性と考えるのが普通なんだろうな。 「環境が変わると、誰でも気が付かないうちに心の不調を起こすものだよ」  産業医は口角を上げ、何でもないことだと暗に言う。安心させようとしてるのがわかってなんだか有難い。僕は、頭を下げ、紹介状を受け取った。  ――――ここか。『クリニックペガサス』。この少女趣味なネーミングセンスは、世間の評価を疑うに十分なんだけど。  駅前のファッションビル。一階、二階はオシャレなカフェやちょっと裕福な人向けのブティックなんかが軒を連ねている。クリニックは三階に、それより上はオフィスになっていた。  駅前の一等地だ。ここにクリニックを構えられるには、かなりの資金が必要だったんじゃないか。なんてどうでもいいことを考えた。  ――――評判がいいって産業医は言ってたし、予約も結構埋まってた。まあ、信じる者は救われるかな。  僕はクリニック直通のエレベーターに乗った。扉が開いたすぐその前に、開け放たれたガラスドア。その向こうに、落ち着いたウッドの受付が見えた。ミント色の制服を着た女性が僕に微笑みかける。  僕はその笑みに導かれるように、クリニックへと足を踏み入れた。それが、僕の人生がひっくり返るほど激変した第一歩だと、その時は気付くこともなかった。
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