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第4話 視線
「せ、先生、ちょっと待ってください。冗談ですよね?」
僕は目の前でコインを揺らし始めた天宮医師に真顔で訴える。いやいや、こんなん、テレビのバラエティーでもないわ。
「冗談じゃないですよ。意外に馬鹿にしたもんじゃない。ほら、このコイン、よく見て」
よく見てって言われても……。僕は目の前で揺れる小さな丸いものに集中しようとするが、どうにも不信感ばかりが募って上手くいかない。というか、全く信用できない。これ、本当に大丈夫なん? 健保で降りるよね?
「あなたは段々眠くなる」
ね、眠くなるわけない。ところが、驚いたことにいつの間にか先生の声にエコーがかかり出す。なにか使ってるわけじゃないから、僕の意識が遠のきだしたんだ。
――――不思議だ。どこかで見た景色が蘇る。ここ……どこだろう。
先生がなにか言ってる。僕はどんどん潜り込む。なんだか、本当に眠れそう……。
『寝ないで。起きていて』
――――はっ!?
いつもの、僕が眠りそうになると必ず聞こえる声がした。
「声が……」
「声? 聞こえるの?」
「いつもの……寝るなって……高い声……」
目の前で揺れるコインを見つめながら、僕は先生の質問に応じる。だめだ、絶対こんなんで眠れるわけはない。
「アンケートにも書いていたね。寝るなって言われて眼が冴えると」
「無理ですよ! こんなの……」
僕は苦しくなって、思わず立ち上がった。なんだかふらつく。
「どうした、光君、落ち着いて。君、今、眠りそうになってただろう?」
天宮医師は、追うように立ち上がった。
「眠れない。いつもと同じだ! こんな道具で眠れるわけないっ」
なんだか無性に腹が立って、初対面の医者だというのに、思い切り感情的な言葉を投げつけた。こんなに暴走するのも蓄積された寝不足のせいだ。そんな甘えも沸き起こる。
「落ち着いて、私の目を見て。光君?」
「あの……」
「大丈夫。怖がる必要はないんだ」
怖い? 怖くはない。
「もう一度、座って。誰の声も聞こえない。聞こえるのは私の声だけの筈だよ?」
先生は再びコインを揺らす。その向こうで、静かにフチなし眼鏡を外していった。切れ長の双眸は形よくまつ毛が嘘みたいに長い。そして、二つの瞳が僕をしっかりと見ていた。
「今度は私の目を見て。心を落ち着かせて。そう、深呼吸を一つしよう」
強い視線が僕をしっかりと捉えている。先生の瞳の奥に深遠な広がりが見えるようだ。言われた通り一つ息を吸うと、花のような甘い香りが鼻孔に広がった。
不思議なことに、もうコインは見えない。それとももう揺らしてないのかな。気が付くと、先生の声にまたエコーがかっていく。
――――あんなに苛立っていた感情が萎えていく。突然訪れた凪のように。
意識は暗闇に落ちていく。それは不快でも恐怖でもなく。心地よい、柔らかな繭に包まれるかのような瞬間だった。
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