第5話 治療開始

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第5話 治療開始

 そこは明るい草原だった。僕は緑の中を息せき切って走ってる。視界から捉える地面が近い。  まるで背が縮んだようだ。目の先に映った靴は、汚れた運動靴だった。僕は子供の頃の夢を見ているんだ。 『光、可愛いねえ。手を繋ごう』 『可愛くなんてないっ』  男の人の声に、僕は思い切り声を張る。可愛いって女の子に言う言葉だよっ! 手なんか繋がない! 生意気な調子で叫んでる。僕はこんな小さい頃から手を繋ぐのを拒否してたんだろうか。  容姿のことを言われるのも今でも好きじゃない。もう社会人なのに……能力を見て欲しい。まだまだ大したことないってわかってるけど、容姿なんて如何様にでも変えられる。大事なのは頑張る気持ちと結果だよ。そう思って仕事してるのに。  ――――でも、今では目の下のクマが幸いしてか、誰からも言われなくなった。それは意外に怪我の功名かな。 『光! こっちにおいで』 『誰……み……ママ?』  ママ。なんて、もう10年以上言ったことない単語だ。だからかわからんないけど、びっくりして自分の声で目を覚ました。僕はどうも、声に出してしまったようだ。 「あ……ここは……?」  霞かかったような僕の脳内と視力。こしこしと目を擦り、ようやくここが自室でないことに気付く。だが、さっきまでいた診察室でもなさそうだ。  ぴしっと張られたシーツ、ふわふわの枕。僕は整えられたベッドの上にいた。 「あ、目が覚めた?」  低音の大人の声がして、僕はガバっと起き上がった。 「こ、ここは?」  言いながら自分の姿を目と手で確認する。良かった。服着てる。ジャケットはすぐ横に置いてある椅子の背にかけてあった。 「ここは診察室の奥にある休憩室だよ。カウンセリングの途中で気分が悪くなったり、逆に寝てしまう方もいるので。光君のように」  先生の背中の後ろ、ドアの向こうに確かに診察室が見えた。休憩室と呼ばれたここは、さほど広くはないが、シングルベッドと籐の椅子や箪笥が置かれていた。南国テイストのこじゃれた雰囲気だ。 「ど……どのくらい寝てましたか?」 「2時間かな」 「に、2時間!?」 「驚いた? ぐっすり眠れたようだね」  本当だ。なんだか随分すっきりしてる。頭も体も。まるで生まれ変わったみたい。は、言い過ぎか。 「あ、ありがとうございます。まさかあれで眠れるなんて……」  なんかすごく失礼なことを口走った気がするのだが。 「いやいや、まあ、導入はなんでもいいんだよ。はい、お水」 「いただきます」  小さな冷蔵庫から、先生はペットボトルを出してくれた。僕は遠慮なくごくごくと飲む。なんか水ってこんなに美味しかったかな。 「さて、とりあえず、取っ掛かりはできたな」  先生はベッドの上に腰を下ろした。なんだか距離が近い。僕はベッドから出ようと慌てて足を出す。 「慌てなくていいよ。まだ治療は始まったばかりだ」 「え? いや、あの……」  もう、眠れたし。不眠症治ったんじゃ。僕がそう言おうとした時、先生は抜け出そうとする僕の腕を取った。今度は縁なし眼鏡越しの視線が僕を捉える。どういうわけか、僕は再び動けなくなってしまった。
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