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第22話 三日ぶりのキス
時計が5時になったところで僕はすっと立ち上がり、忍者のように音もたてずにフロアを出た。三笠には既に帰る旨を伝えている。
――――早く帰らなきゃ。先生と久しぶりに一緒に居られる。いや、それよりも食事の用意とかしてあげたい。僕の料理はいまいちだけど……。
今朝、先生は相当疲れていた。クリニックも結局今週いっぱい臨時休診になってしまって、その後始末も色々忙しいだろう。もしかしたら、クリニックに顔を出したかもしれない。
色々考えて、とにかく早く帰ろうと朝から頑張ったんだ。
「ただいま。先生?」
靴を脱ぐのももどかしく、僕は廊下を小走りに渡り、リビングに続くドアを開けた。
「あっ……」
開けてすぐわかった。お肉の焼けるいい匂い。
「よう、おかえり。お疲れ様―」
「先生、料理してたの? 疲れてるんだから……」
先生はいつものデニム生地のエプロン姿で、指をさっと出す。僕の言葉を遮った。
「ひと眠りしたら元気になったよ。まだまだ若いだろ? それに料理は気分転換だ。病院ではまともな食事取れなかったからな」
今朝のしわくちゃな(失礼)先生から、いつもの美しい王子様に戻ってる。三笠じゃないけど、出汁マシマシの高野豆腐でやっぱり嬉しいや。
「光の好きなスペアリブを焼いた。少し早いけど食おうぜ」
「うわっ! やったあ。着替えてくる」
「おっと、待って」
ネクタイを緩めながら部屋へ向かう僕の腕を先生が取った。引っ張られる感じになって先生のエプロンにこつんと背中から包まれる。
――――ひゃあ……なにこれ……。
「三日ぶりのキスしよう」
バックハグをしながら、先生が僕の顎に手をかける。そのまま、僕らは唇を重ねた。
――――震えてる……全身痺れてる。こんなキスされたら……そうなるよね。
先生からはバーベキューソースの美味しい匂いがした。
「とりあえず、クリニックは月曜日から再開できそうだ。明日午前中にスタッフと打ち合わせしてくるよ。随分迷惑をかけてしまった」
ほぼ1週間ぶりの手料理を夢中で頬ばりながら、僕は先生の話に相槌を打つ。敢えてなのか、お祖父さんの最期や親戚一同で話したであろう肝心なことは何も言わない。
お祖父さんは昭二さん(跡取りの次男)の病院に入ったので、部屋は当然特別室。その隣の部屋も一族郎党にあてがわれ、先生たちはそこで寝泊りしながらお祖父さんと最後の時を過ごしたそうだ。
「たまたまクリニックを休診させてたから、結局私が一番動けるってんでいいように使われた。まあ立場も中途半端だから、扱いやすかったのかもしれないな」
車で来ていたため、本家との送り迎えやら買いだしやらに駆り出されたそうだ。自虐的な言い方だけど、察するに役立てたことに安堵してるようにも感じた。
「それでも、最期は立ち会えたんでしょ?」
僕はそっと尋ねる。
「ん? ああ。みんなが顔を揃えてるのをゆっくりと眺めてね。それから目を閉じて眠るように逝った。満足そうだったし、少なくとも苦しむことはなかったんじゃないかな」
先生の言葉は少し湿っていた。お祖父さんに対する優しさと思いの深さを感じた。
もし僕らの間にテーブルがなかったら、僕はきっと抱きついた。慰めとかじゃなくて、その尊さに僕はただ感動したから。
――――好きになって良かった。
先生といると、どんどんそう思ってしまう。どんどん好きになっていく。
「明日の夜、通夜に参列してくれないか? 紹介とかじゃないけど、光のこと、みんなに知ってもらいたいんだ」
「へ?」
そんな暖かな感情に水を浴びさせるような、先生の一言だった。
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