287人が本棚に入れています
本棚に追加
/86ページ
第7話 キスしようか。
その日、なんとなく落ち着かないまま就業時間が過ぎて行った。隣の同期は二日酔いが祟ってかほとんど無口。青い顔して画面を見つめていた。
悪酔いしたのを本人も自覚しているのだろう。ただ、昨夜話したことはほぼ忘れているようだ。その方が僕も有難い。
『今夜話す』
先生の起き掛け特有のほんわかした声が、この日何度も僕の耳によみがえってきた。駅からマンションまでの緩い上り坂を自転車で漕ぎながら、それは今朝の風景とともに僕に迫る。
――――なんだろう。意外に『なんだぁ』ってことならいいんだけど。
「あ、先生」
「おお、今帰りか」
マンションのエントランスで先生とばったり会った。帰宅時間は各々まちまちなので、こんなふうに会うのは初めてだ。
「お疲れ様」
降りてきたエレベータに一緒に乗る。なんだか新鮮だ。
「キスしようか?」
「へえっ? えっと」
18階まで昇る間、先生は手持ち無沙汰にでもなったのか、突如としてそんなことを言いだした。ちらりと上部を見ると、防犯カメラが僕らを睨んでる。
「心配ないよ。なにもなければ更新されちゃうから」
「でも……」
口にした言葉は塞がれた唇で消えていった。顎に手をかけふいと上向かされた瞬間に僕は震えてしまう。
ほんの数秒の短いキスだったけれど、まるで夢でも見てるような心地。
「失礼」
「ほんとに……失礼だよ」
俯いて僕は呟く。失礼だけど、癖になりそうだ。そんなこと、恥ずかしくて言えない。
「でさ、三笠は推理小説みたいに言うんだよ。先生よりずっと失礼だろ?」
エレベーターのキスで心がほぐれたのか、僕は夕食の準備からずっと昨夜の顛末を話してる。
多分、恥ずかしさを紛らせたいんだな。まさかそれが狙いだった? 考え過ぎか。
「なるほどね。確かにミステリーなら犯人は近場にいるな」
「そりゃ、探偵が毎日事件に会うのと同じくらい、現実には程遠いよ。あいつ、先生が犯人だって言ったんだよ?」
「え? おいおい。私も当時は美花さんと同じ小学生だよ」
料理をテーブルに並べた頃に、炊飯器がご飯が炊けたとメロディーを奏でる。僕らはいつも通り向かい合って席についた。
「そう言ったら、逆に驚いていた。もっと年上だと思ってたんだってさ。悪い意味でなく、先生年上に見えるから……そういえば、先生は美花と同い年だったんだね」
「ああ。あの記事を見つけた時、気が付いた。妙な因縁だなと思ったよ」
少ししんみりしてしまった。どんなに悲しんでもその思いが尽きることはない。どうすることもできないもどかしさも。
「三笠も言ってたけど、この先犯人が捕まるようなことがあったとしたら、別件で逮捕された窃盗か強盗犯が、実はその事件に関わってたと判明する。みたいなことになるのかな」
微妙な空気になったその場を、僕は振り払うようにわざと明るい声を出した。けれど、少し間を置いて応じた先生の言葉に、僕は一瞬で固まった。
「いや、それはない。あの頃、あの地域を荒らしていた窃盗犯。既に逮捕されてる」
最初のコメントを投稿しよう!