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煌星の実家はマンションから見て隣の区にある。そもそも俺の職場への通勤を考慮して選んだ物件で、煌星の職場へは実家からの方が近い。本来煌星が一人暮らしをするメリットはないのだが、わざわざ俺の隣に住んでいる。
「俺のために料理を始めた、か――」
俺がSubだと知っていながら黙っていた煌星。あの日彼が言ったように、俺のことを馬鹿にしていたわけじゃなかったんだ。本当に俺のことを大事に思ってくれてたからこそ、知らないふりをしていてくれた。その気持ちを俺は信じられず、煌星を追い出してしまった。
三浦家のインターホンのボタンを押す。名乗ってしばらくすると、煌星の母親が出てきた。
「久しぶりね凪くん。茜音から聞いてるわ。ごめんなさいね、わざわざ来てもらって」
「いえ、俺のせいで煌星くんが大変みたいで。こっちこそすみません」
「いいえ~。さ、どうぞどうぞ」
「お邪魔します」
靴を脱ぎながら「煌星は上ですか?」と尋ねると彼女が「そうなの」と答えた。
「せっかく来てもらったのに、もしかするとドアを開けないかもしれないわ。私もずっと顔も見てないの。でも声だけでも掛けてやってくれる?」
「はい。じゃあ、ちょっと行ってきますね」
俺は階段を上がって煌星の部屋の前にたどり着いた。深呼吸をし、ノックする。
「煌星、俺だよ」
静かに声を掛けたが、何も返事がない。
「煌星、いるんだろ? なあ、少し話せないか?」
すると中から低い声で「帰って」と聞こえた。ちゃんと生きてるようだ。俺はもう一度ノックする。
「おい、開けろよ。俺も悪かったからちゃんと話そう、な? 入るぞ」
「だめ! 入ってこないで!」
ドア越しでもビリッと空気が張り詰めるほどの威圧感に俺は硬直した。グレアだ。
――そういや煌星はグレアのコントロール失ってるって言ってたっけ。
俺は恐る恐るドアノブに触ってみる。すると静電気みたいなものが指先に走った。
「いてっ……!」
「ごめん。グレアをうまく抑えられないんだ……危ないから帰って」
部屋の中から沈んだ声が聞こえる。しかし俺はそれくらいで諦めるつもりはなかった。
「嫌だね」
忠告を無視して俺は気合を入れ、ドアノブを掴んだ。その瞬間背筋がぞくっとするほどの恐怖を感じたがそのままドアを開ける。
「凪だめだ。入らないで」
カーテンを締め切った部屋で煌星はゲームをしていたようだ。PCモニターからの明かりにぼんやりと浮かんだのはスウェットにTシャツ姿で髪の毛はボサボサ、無精髭の生えた酷い姿。こんなに荒んだ煌星は今まで見たこともなかった。
「お前――……」
ヘッドホンを外しながら彼が虚ろな目でこちらを見る。
「危ないから帰ってって言ったよね」
「俺は話しに来たって言ってるだろ」
煌星はため息をついて首を振る。
「僕は凪に会う資格ないから――お願い帰って。怒ってるのはわかるけど今はごめん、正直凪の顔見るのもつらいから……」
煌星はそう言ってこちらに背を向けた。
「煌星……」
「どうせ姉ちゃんか母さんから連絡でもあったんでしょ? 凪は優しいから、あんなことした僕のことでも心配して来てくれたんだろうけど」
「ああ、仕事休んでるって聞いた。大丈夫か?」
「わざわざありがとう。でも大丈夫。もう少し時間を置いたら元の僕に戻ってちゃんと会社に行くよ。だから……これ以上みっともないところ見られたくないし今日は帰って。気持ちの整理がついたら、マンションもちゃんと引き払う。もうつきまとったりしないから安心して」
煌星は肩を震わせながらかすれた声で言った。
こいつをこんな状態にしたのは俺なんだ。煌星が王子様でいるのも、こうやって酷い姿になるのも、全部俺が――……。
俺は散らかった部屋に足を踏み入れた。
「凪、入っちゃだめだ! Stop」
煌星がとっさにコマンドを出し、俺は反射的に足を止めた。深呼吸してもう一歩踏み出すと煌星は焦ってまた俺を止めようとする。
「ごめん僕……でもだめだよ、Stay 凪!」
「うっせー」
俺は煌星のコマンドを無視して歩み寄る。煌星が意図せずに発しているグレアの中、Domのコマンドに背く行為に俺の体は震えていた。足は重たくて磁石で床にくっついてるみたいに動かしにくいが、それでも一歩ずつ進んでいく。
「凪……来ないで。Stop……St……っ」
「く……」
最後は立っていられず、床を這うようにして煌星のところへ到達する。達成感と共に煌星の膝に抱きついた。
「凪やめて! 僕、お風呂も入ってなくて汚いし臭いから。凪、Stop!」
更にコマンドを出されて怯みかけるが、俺は腕にしっかりと力を込める。煌星の膝に頬をぐっと押し付けた。
「舐めんなよ、こっちは寝ずに働く社畜だ。風呂入ってない男の匂いくらい慣れてるよ」
匂いなんかより正直コマンドに背いてる方が何倍もキツいのだ。
「凪……」
「もういいから。かっこいいお前なんてクソ食らえだ。そのままでいろよ。情けないとこも、昔から俺は全部見てるだろ」
「でも……」
「お前は高給取りで背も高くて、顔も声も良いし、家事も完璧。だけど冴えないリーマンに執着して催眠かけてプレイするようなド変態。最低の自己中男だ」
「な、凪ごめん、僕本当に反省して――」
「そんなしょうもないお前のこと、もう誰も相手してくんないよな?」
「うん、ちゃんとわかってるよ……。許されることじゃないってわかってる」
「いいやわかってない。ちゃんと聞けよ? あのな、仕方ないから俺がお前を嫁にもらってやるって言いに来たんだ」
返事がないので見上げると、煌星が驚愕に目を見開いている。
「え……?」
「俺はDomのくせに情けなくて残念なお前のことが好きだよ。大体お前みたいなDom、誰も手に負えないだろ。そのままのお前を俺が貰ってやるから、引きこもってないで帰ってこい」
煌星が見る間に顔をくしゃくしゃにして俺の名前を呼ぶ。
「凪……これ夢……?」
「夢じゃねえ、現実だよ! だからさっさと俺をケアしろよ。お前のコマンド無視するのすっげーストレスなんだよ」
「ごめん、凪 Good boy! 嬉しいよ。来てくれてありがとう。大好きだよ、抱きしめてくれてありがとう凪。かわいい、天才、いい子!」
煌星は俺を褒めちぎって頭を撫でまくる。それで俺はようやく詰めていた息を吐いた。泣き笑いみたいな顔をしている煌星を見てこっちも笑ってしまう。
「ったくお前ひっでー顔だな」
「だって、僕のこと許してくれるなんて……」
「もう俺に黙って変なことすんなよ」
「しない!」
「さあ、そしたら風呂入って着替えてこいよ。うちに帰ろうぜ」
煌星は地面に座っていた俺をいきなり持ち上げ、自分の膝に乗せたかと思うと力いっぱい抱きしめた。
「凪……ありがとう凪」
俺も煌星のゴワゴワする髪の毛に手を伸ばして撫でてやる。さっきまで部屋中に漂っていたグレアの気配はすっかり消え去り、煌星と触れ合った部分からじわじわと温かいものが伝わってくる。
俺はこれでようやく昔みたいにこいつのことを受け止めてやれそうな気がした。
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