概念薬

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概念薬

 ある日、俺は自身が持つ特別な力に気付いた。  世界はとんでもないことになってしまったが、これからでも建て直せる。俺が今のまま心を落ち着けて、冷静にこの能力を使えばきっと大丈夫だ。  何も不安なことはない。心が和平と愛に満ちていれば、この世界は何度だってやり直せる。心穏やかに落ち着いて。    世界再建のために俺の力を使えるなんて、これほど嬉しく、幸せなことはない。  俺は今の自分の役割を誇りに思っている。    社会人2年目の頃。失敗を繰り返し自信を失っていた俺。  ミスをして怒鳴られては、パニックになっていた。  帰宅すれば、自然と涙が流れ、布団に包まる生活が続いた。    そんなとき、ふと“落ち着ける薬が欲しい”と思った。  しかし病院に行く時間などない。会社に行っても行かせてくれるはずがない。精神安定剤があれば少しはマシになるのだろうか。    そう考えながら、右手を開いて見つめる。  “落ち着きたいって気持ちで薬が出ればなぁ”  その瞬間、手の平から小さな光が発せられた。その光は一点に収束すると、一粒の錠剤が形作られた。  突然のことに俺は汚物でも触ったかのように手を払った。  錠剤は宙に放り投げられ、落下してバウンドするとメタルラックの下へと滑り込んだ。  少しフリーズしてから、(おもむろ)にメタルラックの下に手を伸ばす。そこまで奥には入っておらず、すぐに取ることができた。  少し埃には(まみ)れていたが、簡単に払うと、まじまじと錠剤を見つめた。 「薬…? そんなことある? 夢?」  どう考えてもおかしな出来事であったが、どうにも好奇心が湧き出て止まなかった。正常な思考なら口にすることなどありえないが、当時の俺はメンタルを病んでいたせいか、それを服用してしまった。  水もなしに飲んだせいで、若干喉に引っかかり、慌てて唾を飲み込んだ。  そしてすぐさまコップに水を注ぎ、喉へと流し込んだ。  変化はない。  それもそうか。飲んですぐに作用する薬なんて劇薬以外基本的にはないだろう。  1時間が経ったころだった。  不安や悲しみに支配されていた心が楽になり、気づけばテレビを見て笑っていた。そのことに気付いた俺は腕や胸を叩き、夢ではないかを確かめる。  痛みはある。夢じゃない。  そこで俺は、さっきの出来事を試すために先ほどと同じ様に、手のひらを上に向け、あることを考えた。  “楽観的になる薬がほしい”  そう念じた直後、またもや手の平から小さく光りが発せられ、小さな錠剤が現れた。  このときは躊躇(ためら)うことなく口の中に放り込み、先ほど飲んで残っていた水で流し込んだ。  1時間が経った頃、俺の考えは大きく変わっていた。  これまで将来に希望など持てず、会社に行くことが億劫であったのに、今は“何とでもなる”、それどころか、“何でもできる”としか考えられなくなった。  これはすごい!と喜んだが、同時に一抹の不安が過る。  しかし、その不安が何に対するものだったかも思い出せないほど、すぐさま楽観的思考が押し寄せた。  この日から、俺の生活は一変した。  会社では落ち着きを取り戻したことで、ミスは減り、楽観的になったことが作用して挑戦も多くするようになった。“何とでもなる”と思ったのは間違えではなく、本当に何とでもなった。挑戦して失敗もしたが、何とかなった。  こんなことなら、もっと前からこの気持ちで仕事に打ち込んでいれば、と後悔するくらいだった。  1ヶ月が経ったころ、仲の良い同期、中野丈太郎が俺の家で飲んでいるときに、俺の変化について尋ねたことがあった。 「翔樹(しょうき)、お前最近すごいな。ついこの間まで潰れる寸前みたいな顔してたのに」  俺は錠剤のことについて言うか迷った。変に研究機関とかに言われると面倒なことになりそうだったからだ。しかし“まぁ何とかなるか”と思い、彼に告げることにした。 「今、お前がほしい感情を言ってみろよ」 「ほしい感情ってなんだよ?」 「楽しいとか、気持ちいいとかさ、そういう感情だよ」 「なんだよそれ」 「いいから言えって!」  丈太郎は意味が分からないといった表情で少し考えると、渋々答えた。 「じゃぁ、“楽しい”で」  俺は“オッケー”と言って手のひらを上に向ける。手のひらから光が放たれると、光の収束とともに錠剤が現れる。 「なんだよそれ! 手品か!?」  丈太郎は目が飛び出るほど驚いている。無理もない。 「これが俺が最近変わった原因だよ」  そう言って俺は錠剤をつまみ上げた。 「楽観的になったのも、落ち着きを保ってられるのも、全部これのおかげだ」  俺は得意げにそう説明したのだが、丈太郎から返ってきた言葉は予想外のものだった。 「らっかんてき…? 餅つきってなんだ?」 「何言ってんだよ、楽観的だって! それに餅つきじゃなくて落ち着き! こんな時にふざけんなって!」   「だからなんだよそれ。聞いたことないって。難しい言葉使うなよ」  酔いが回っているのか、丈太郎は理解していない。 「いや、楽観的だって! これ!」  俺は丈太郎に見せるためスマートフォンで“らっかんてき”と打つが、予測変換で出てこない。“楽”、“観”、“的”と一文字一文字入力して検索してみるが、そこに出てきたのは……  “悲観的ではありませんか?” というものだった。  検索結果には、“楽しい映画の見方”や“スポーツ観戦”などの記事がヒットしていた。  驚いた俺は“落ち着く”という言葉も調べてみたが、落下系の言葉しか出てこなかった。  その時に俺は直感で理解した。    この能力は“言葉自体を薬にする”ものだと。  手に握っていた“楽しい”錠剤を握りしめると、丈太郎から遠ざけるように背に隠した。 「なんだよ、手品だろ? 取りゃしねぇよ」 「た、楽しかったか?」  俺は試すように恐る恐る丈太郎に尋ねた。 「おう、楽しかった! 手品ができるなんてすごいな! 知らんかったわ!」  その言葉に俺は安心した。“楽しい”はまだこの世に残っている。  その後は気が乗らず、丈太郎には半ば無理やり返ってもらった。  布団に入り、上の空のままスマートフォンを弄る。  すると、ある記事が俺の視線を釘付けにした。 『先月から世界的に自殺者が急増。原因は不明、調査中』  先月という単語が俺の心を突き刺した。  自殺者…“楽観的”がこの世からなくなったことで“悲観”のみが残り、自殺が増えた?  そう考えるのが自然だった。  そして俺はすぐに“パニック、世界”と入力し、検索をかけた。  出てきた記事は不幸にも思った通り。 『ここ1ヶ月で暴動が頻発。銃乱射事件も急増か。死亡者多数』  “落ち着き”が消えたからだ。  俺が大勢を殺したといってもおかしくない。大きな後悔が俺を襲う。  しかし、俺は冷静だった。すぐに落ち着きを取り戻し、こう考えた。  『この感情からは逃れることができる』  俺はゆっくりと手を広げる。  しかしすんでのところで、能力を発動させるのを止めた。  ここで錠剤を作れば、さらに世界は悪くなるかもしれない。より多くの人が死ぬかもしれない。    そう考えたが、やはり何とかなると思い至った。いくら考えてもそうとしか思えない。冷静に、落ち着いて考えているのだからきっと何とかできる。  なんせこの力があるのだから。  錠剤を出現させた。  約1時間後、世界から“安心”が消えた。  そこからは速かった。急速に世界は壊れた。  世界はとんでもないことになってしまったが、これからでも建て直せる。俺が今のまま心を落ち着けて、冷静にこの能力を使えばきっと大丈夫だ。  何も不安なことはない。 =End=
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