第1話:パーソナライズド・コンバーション

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第1話:パーソナライズド・コンバーション

「スマートフォン用アプリケーションとして開発した『電脳幻愛』は、人工知能が自動生成した仮想の恋人を通じて、ユーザーに疑似的な恋愛体験を提供する製品です。キャッチコピーは、感情の絆が紡ぎ出すサイバーロマンス……」 「羽鳥くん、そんな製品は他の企業でも既に開発されているだろう。わが社で今さら製品化したところで、どのようにユーザーを獲得するっていうんだい?」  営業部長の前澤は、相手を威圧することでしか自分の優勢を保つことができない。普段は気にも留めない白い天井が、上から押し付けるような圧迫感を伴って僕の存在を小さなものに変える。窓から差し込む午後の日差しが、どこか不親切な輝きを放ち、会議室に不快な熱気をもたらしていた。 「本製品の特徴として、優れたパーソナライズド・コンバーションを挙げることができます」  機能的に洗練されたはずの黒テーブルは、何度も繰り返される議論の後で、疲れ果てた参加者たちの悲鳴を受け止めてきたかのようだ。清潔で洗練されたイメージの裏に、議論し尽されなかった言葉の無念さが宿っている。 「なんだね、そのパーソナライズド……なんだかっていうのは」  会議室の空気に何かしらの香も感じられない。まるで過去の議論が、そこに居続けることを許していないかのようだ。 「簡単に言えば、『電脳幻愛』のために開発した人工知能が、登録ユーザーと会話をすることで継続的に学習し、ユーザーごとの好みや趣向に合わせて言語生成を自動でカスタマイズするんです。つまり、よりリアルな恋愛体験が得られるというわけです。また、ユーザーは仮想空間で人工知能が生み出した恋人とリアルタイムで時間を共有することもできます」  前澤は腕を組み、鉛を飲み込んだような表情を浮かべて僕を睨み続ける。剥き出された感情は、鋭い眼光に乗って僕の心を容易に貫いていった。 「『電脳幻愛』は時間とともに感情のインテリジェンスを磨き、ユーザーとの絆を深めていくことが、統計モデルによる解析で示されてます。ユーザーの喜怒哀楽に共感することで、より良いパートナーに成長していくのです」 「安全性はどうなんだ? 個人情報とかそういうのが漏れると大変なことになる。常々言っとるだろう。ガバナンスが大事だって」  ガバナンスを口にする人ほど、ガバナンスを理解していない。コーポレートガバナンスは前澤が語れるほど薄っぺらいものでは無いのだ。 「ユーザーの個人情報やチャットデータは、独自開発した最新の暗号化技術によって保護されます。外部からの不正なアクセスを防ぎ、情報漏洩のリスクを最小限に抑えます。むろん、セキュリティーパッチやアップデートの適用も定期的に行われます」  電脳幻愛の基本仕様をまとめた資料をめくる音や、ノートパソコンのキーボードを叩く音が室内に響く。会議に出席しているのは営業部長の前澤をはじめ、事業部の錚々たるメンバーだ。小声でささやかれ続ける彼らの会話を無視して僕は話を続けた。 「今後の展望ですが、ユーザー同士が交流できるコミュニティ機能や、バーチャルイベントの開催などにより、ユーザー体験をより多面的に展開する予定です」  静寂は時の流れを際立たせる。壁に吊るされた時計の秒針が、これほどまでに意識される瞬間も多くない。 「しかしねぇ、君」と、話し始めた前澤の言葉を遮るように、隣に座る事業本部長の武田が立ち上がると、ゆっくりと拍手を始めた。武田は周囲を見渡しながら会議の参加者にも拍手を促す。  武田は何度もうなずくと、「いや素晴らしい。ぜひ製品化してほしい」と言って会議室を後にした。
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