彼を、私は選んだ

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彼を、私は選んだ

私の名前は、鸕野讃良皇女 (うののさららのひめみこ)。 この名よりも多くのに人は、私の死後、 諡としてつけられた『持統天皇』 の方がなじみ深いのでしょう。 わたしは、中大兄皇子(天智天皇)の 娘として生まれました。 天皇の娘として生まれて天皇に嫁ぎ、 皇后(中宮)となった人は何人も居るけれども、私はその中でも人々に記憶されることになるとは、その時は思ってもいませんでした。 私が嫁いだ大海人皇子様には、多くの妃がいました。 名前の伝わる人だけでも、天智天皇の娘である私と同母姉の大田皇女、新田部皇女、大江皇女。 藤原鎌足の娘、氷上娘と五百重娘。 蘇我赤兄の娘、大蕤娘(おおぬのいらつめ) 他にも、妃となってはいないが、 額田王との間に十市皇女を儲けています。 父天智天皇は、4人の娘を大海人皇子様に与えました。それは、実はおふたりは兄弟でなかったから、という説や、兄弟の結びつきを深めるためだったとも言われております。 私の結婚は、まさに政、政略結婚でした。 父は野心家で、それまで豪族の長に過ぎなかった大王家を、実質的に皇帝のような存在である“天皇家”とし、豪族連合であった “倭国”を中央集権的国家“日本”へ変えようとしていたのです。 まだ、国家として成熟していなかった “倭国”においては、天皇(大王)は、 兄弟相続が基本でした。 実質的な指導者であるため、 成人でなければ天皇(大王)となれず、 豪族の長であるため、各豪族の思惑も絡み、代替わりには、争い事が絶えませんでした。 夫となった大海人皇子様は、 それまでの慣例にならい、父天智天皇の 皇太弟となっておりました。 しかし、父の真意は長子相続、 つまり大友皇子への継承でした。 その為に、蘇我氏など豪族の力をことあるごとに削いでいき、 天皇である自身に力を集中させていきました。 その最初が、あの乙巳の変でした。 白村江の闘いでさえ、鉄資源の確保、百済の再興という目的の裏には、 西日本の豪族の力を削ぐ為だったともいわれております。 それが、西日本の豪族の不満を高め、 ひいては壬申の乱における近江朝廷への反乱に繋がったのですが。 病を得て、自身の命が短い事を悟った父は、大海人皇子様を呼び後を託そうとします。 しかし、それは本心ではないことを 大海人皇子様は気付いておられました。 大海人皇子様は、その場で剃髪し、 僧となって吉野に隠棲します。 でも、それはもちろん、来るべき 大友皇子の軍・近江朝廷との闘いに備えるためでした。 大海人皇子様の多くの妃は、 近江朝廷に残りました。 私を含め僅か20人ほどの手勢を連れて、 大海人皇子様は吉野に向かわれたのです。 私は、この時父ではなく、 夫大海人皇子様を選んだのです。 父は、母の実家、曽我倉山田石川麻呂の一族を滅ぼしました。 私は、育つ家も母もなく、伯母に引き取られ、天皇の娘でありながら、 謀反人の家の者としてひっそりと生きてきたのです。 私は、その事を忘れませんでした。 私は、姉大田皇女のように、嫋やかな女ではありません。 夫大海人皇子様も、私を女として愛するより、 おそらく相談役・補佐役として頼りにされていたと思います。 私は、家や権力に頼るのではなく、 茨の道を切り拓くことを選んだのです。
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