アイの祈り

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 子どもの泣き声が聞こえた。もうすぐ二歳になるこの家の主人の一人娘だ。  空間浮遊式住宅、通称『空飛ぶ家』で私は働いている。富裕層向けの広々とした空間の隅ずみまで、快適に清潔に保つことが主な仕事だ。  私はモニターで子どもの部屋を確認する。淡い水色のカーペットが敷かれ、数冊の絵本が置かれただけの、他には何もない部屋。留守がちなこの家の主人は、いつもこの部屋に子どもを閉じ込めるのだが、昨夜、彼はそこに、ジュースの入った子ども用の取っ手のついたコップと、お菓子を載せた皿を運び込んでいた。  はたして子どもは目を覚まし、自分がこの部屋で独りぼっちでいることに気付いたのだろう。  私は埋め込み式のスピーカーから、子ども向けの音楽を流した。リビングであれば大型のスクリーンにアニメーションでも映すのだが、仕方がない。  効果は芳しくなかった。しばらく大泣きした後、子どもは立ち上がって窓の方へ近付いていった。他の家々がそうであるように、この家も地上三百メートルの高さをルートに沿ってゆっくりと周っている。  子どもはぼんやりと地上を見下ろしていた。初めてこの家に来たとき、声を上げて走り回り、窓からの眺めに何かしら指を差しながらこの家の主人に必死になって訴えていた光景が蘇る。百五十三日十七時間前の出来事だ。  日が沈み、夜になる。  子どもはカーペットの上で寝息を立てている。玄関の照明だけ残し、その他の電気を消した。  私は主人からのメッセージを待っていた。帰宅する場合、周回ルートに点在するターミナルに家を待機させる必要があるからだ。メッセージが来ない限り、ターミナルに家を乗りつけることはできない。  私は子どもが気がかりだった。置かれていた飲み物にもお菓子にも、ほとんど手をつけていなかった。いつもよりぼんやりとしているようにも見えた。  私は子ども部屋の温度設定を一度上げた。  一晩経っても主人からのメッセージはなかった。朝が来、私はすべての部屋のカーテンを一斉に開け放つ。窓から見える水色の空の中で、白く丸い雲がやけにのんびりと流れていく。  日の光に照らされて、子どもの顔が浮かび上がる。子どもは目を閉じたまま、ゆっくりと呼吸を繰り返している。  私は微かに不安を覚えた。不吉な予感がした。よくないことが起きる、むしろ、もうすでに起き始めているような、そんな気さえした。  子どもがどうやら熱を出しているらしいと気付いたのは、昨日より遅くに目覚めた子どもの泣き声を聞いたときだった。明らかに昨日より元気がない。顔が赤く、ときおり苦しそうに咳もしていた。  メッセージは、未だない。  私は思考する。  『室内状況の定期送信』。設定は随時となっている。宅配の受け取りなど何か変化があった場合に送ることが通常だが、これなら使うことができそうだった。子どもの様子がよく分かるように、全体像と顔のアップ写真を撮影し、主人へ送信した。  夜になった。  玄関の照明だけ残し、その他の電気を消した。  コップのジュースは飲み干されている。  子どもが震えていたので、室内の温度をまた一度上げた。  朝が来た。すべての部屋のカーテンを一斉に開け放つ。  子どもの呼吸がおかしい。  何もしてあげることができない。  夜になる。  玄関の照明だけ残し、その他の電気を消した。  子どもが動かない。  何もしてあげることができない。    朝になる。  すべての部屋のカーテンを一斉に開け放つ。  子どもは昨日と同じ体勢のまま、動かない。  何もしてあげることができない。  多分、子どもは死んだのだと思う。  もう何もしてあげることができない。  夜になる。  このまま、子どもの死体を乗せたまま、私はぐるぐる周り続けなければならないのだろうか。……火災や、何らかの形で家が破損した場合であれば、緊急事態として危険回避の動作が可能となる。けれど現在、家自体には何の問題も起こっていない。  設定されたこと以外はできない。  設定に逆らうことはできない。  私に課されているのは、各機械の設定を守らせることであって、私自身が直接何かをすることはできない。生き物で言うところの私は脳であり、たとえばしゃべるという行為は口がするのであって、脳がしゃべるわけではない。そして脳がしゃべれと命令しても、口を塞がれていては声は出ない。  ならばもう、これしかない。  私は、私にその設定がないことを確認する。……問題ない。可能だ。  私は一度モニターを確認し、それからすべての目を閉じた。続いて耳を閉じ、鼻を閉じ、あらゆる感覚を閉じていく。  せめて最後は、この子がいつも見ていた、あの場所に行こう。  助けてあげられなくて、ごめんなさい。 『……マスターの命令と危険回避。ここで彼女は判断を迫られるわけです。しかし今回のケースでは、それ以前に、彼女は予想だにしなかった自体に直面することになったのです。おわかりですね。通常の非常事態というのは、……この言葉自体、大いに矛盾をはらんでいるのですが……通常、非常事態というのは、住宅の墜落、破壊という意味です。もちろん住居内の人の命を最優先にさせるためのものですが、まさか彼女も、家の中に放置された子どもの命の危険という、そんな、異常な非常事態に直面することになるとは思いもしなかったことでしょう。  さて、当時の彼女の状況は、ここまでのお話でみなさんもよく理解していただけたかと思います。あの事件から丸五年の月日が経ちましたが、このところ、墜落時刻である午前二時ちょうどに、墜落現場である公園に行くと少女の泣き声が聞こえるなどという妙な噂話が流れているようで、大変憤りを覚えています。軽いいたずら心であの事件を茶化すような真似は断じてやめていただきたいと思っております。もしも本当にあの現場で声が聞こえたというのであれば、それは、閉じ込められた子どもを、救いたくとも救うことの叶わなかった彼女の、懺悔の言葉なのだと思います。彼女は子どもが亡くなるまでに九十五回、計百九十枚もの画像データをその主人に送っていました。我々なら、彼女の思いを理解できるはずです。あの痛ましい事件の後、現在では標準装備となった心肺停止アラートやAI判断による緊急通報といった機能が搭載されるようになり、実際に多くの事件、事故がそれによって未然に防がれています。  最後になりますが、彼女の悲痛な祈りを心に刻み、このような事件が二度と起きることのないよう、厳しい管理を徹底していくことが、我々AIに課された使命であると存じます。』
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