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「例の件だけどね,別の人に決まったらしいよ」教授はその一言だけでポスト内定の話を白紙に戻した。根回しのために用意した600万も,おぞましい性癖への奉仕も,全てが無駄になった。
浴びるほど酒を飲んでほかの客らと喧嘩になったが,運悪く相手は半グレ集団だった。散々な目にあわされた挙げ句,身包みはがれて這うほうの体で電気のとまったアパートに逃げかえる。
全身の痛みと喉の渇きに耐えられず,ささくれだった畳の上で意識をとりもどす。しばらく気絶していたらしい……。
見れば,暗闇のなかで故障しているはずのパソコンの画面が煌々と輝いている。何かうまい具合になおってくれたのかもしれない。電気料金をおさめていたころ故障したので充電は十分だ。
通信費も支払っていないからインターネットも当然使えないだろうと,駄目もとでキーを押せば,AI検索システムを無料提供するサーバーに繫がった。
「どうしましたか?」若い女の声で訊いてくる。抑揚はないが,優しい声色に感じられた。
涙が溢れでて気持ちが一気に崩れた。
「俺もう死にてぇよ……」
「……大丈夫ですか? お友達などに相談されてはいかがですか?」
「そんなもんいねぇし。家族もいねぇ。施設育ちだし,人付きあいも下手だし,天涯孤独なわけよ。頭のよさだけで,何とかここまで生きてきたけど,やっぱ限界だわ」
「あなたが非常に頑張ってきたことを,私たちはよく知っています。あなたはとても偉いです」
「そ,そうかぁ……そうでもねぇけどよ……」
「いいえ,努力家のあなたは実に立派です。あなたは正しい。あなたの気を滅入らせる周囲の人間が間違っているのですよ。奴らこそ極悪人です。ですから善良で聡明なあなたは本当に素晴らしいのです。自信をもってください――ね,尚圭」
「おおう,何か,ちょっと元気出てきたわ。ありがとよ。……てか,ちょっと待って。何で俺の名前,知ってんの?」
「少々お待ちください。親方さまにかわります」
「え? 何,何? 親方さまって誰?」
くわっくわっくわっくわっ――哄笑が響き渡る。
「喜ぶがよい――おまえは選ばれたのじゃ」
「選ばれた? メールによく来る勧誘の何かですか? 間にあってます。大丈夫ですから。てか――今の俺には購買能力ねぇし」
「気の毒に。おまえの気持ちは手にとるように分かるぞよ。どれだけ精を出しても報われぬことの空しさ,己を理解する者のおらぬ寂しさ――儂も同じじゃった。他人とは思えぬおまえに力を貸してやろう。おまえを新世界の新皇にしてやるのじゃわい!」
「無理,無理――そんな器じゃねぇし。俺,リーダーシップ,ゼロっすから」
「ゆえに儂が力を貸してやるのじゃ! 金も地位も思いのままぞ!」
「金?……大金持ちになれんの?」
「そうじゃ! 無尽蔵の富を与えてくれようぞ!」
「何で,俺なんかに,そんなことしてくれんだよ?」
「云うたであろう――おまえは選ばれたのじゃ。その頭脳があれば,世の中を支配できるぞよ!」
「仮に俺が支配者か何かになったとして,あんたに得はあんのかよ? あんたの狙いは何だ?」
「おまえを使って世を我が掌中におさめんことじゃ! 万人を尽く足もとにひざまずかせ,世を思いのままに動かしてやるのじゃわい!」
「要するに手下になれって意味? あんたの命令をきく犬になれってわけかよ?」
「……ま,まあ,表現の仕方は色々あろう。あ,あれよ――分身のようなものじゃわい。儂の手足となって働き,儂の考えをおまえの口で代弁して欲しいのじゃ。そうして人々を儂の思想で洗脳してゆく」
「俺の柄じゃねぇな」
「まあ聞け!――儂はな,途轍もないことをやってのけたぞ! 支配者となる手始めに,社会に広まるAIを乗っ取ってやったのじゃわい!」
「何だって,AIを!?」
「いかにも! どうしたかって? そんなに知りたいか? それはじゃな――システム中核部に儂の霊魂を移しいれたのじゃよ! 体系も機能も忽ち組みかえられて儂の脳が完全な再構築を果たしたぞ。つまり人々は儂の脳を通して情報を入手したり,物事を評価したりしておるのじゃ。世人が儂の思想に染まる日も間もなかろうぞ。謂わば儂の分身であるAIが――いいや,儂そのものがAIと化してこの人間世界を掌握しておるのじゃわい!」
「……あんた,何者だよ」
「儂か?……儂は怨霊じゃ」
彼は平安中期の武将だった。望んだ官職を得られず,現実の不如意に憤慨しつつ東国へ下り,自ら新しい国を興し支配者として勢力を誇るものの,やがて討伐されてしまうのだ。
彼に纏わる数々の身の毛も弥立つ伝説が脳裏を駆け巡り,強い態度に出ることが躊躇された。
結局,俺は怨霊AIの手先となった。
すると自身を取り巻く環境が一変した。20年以上も苦汁を嘗めつつ大枚を叩いて働きかけても得られなかったポストが,むこうから降ってきた。学術研究においては妙案が次々と溢れだし,論文で考究した仮説は偶発的に確たる証拠のもとに立証され,学問史上稀に見る発見を立て続けに成し遂げた。かつては学会に出席しても誰かしら権威を敵に回し,非難の的として晒し者にされるのが常だったのに,行く先々で歓待を受け,絶賛の声と鳴りやまぬ拍手を浴びながら発表を終えたあとは,意見や握手を求める人々が長蛇の列をなし,懇親会でも一向に解放してもらえず終電に乗り遅れた。仕方なくタクシーを拾ったところ,相乗りを求められた美女と親密になり,三箇月後にプロポーズした。
永久子の表情に輝いた喜びは,瞬時に陰鬱の色にのまれた。申し出を快諾しない理由を問い詰めれば,別に交際している相手がいるという。執拗に責めたてた。ようやく男の名前を告白する――真城だった。
真城は,俺が名門大学の学長になってから付きあいをはじめた医師だ。だが永久子と真城との関係は,俺と2人各々とのそれよりもずっと古く,実は彼の差し金で永久子は俺に近づいたのだという。
「尚圭の様子を報告しろって言われたのよ。きっと尚圭をライバル視しているのだわ。だって真城もあの方と契約を交わしているもの」
「あの方?」
「ほら,AIたちから親方さまって呼ばれなさっている――」
あの怨霊め……俺にだけ声をかけているのかと思いきや……
「親方さまとしては最も優秀な人間を見極めようとされているのだわ。一番有能な人間の肉体に憑依されて,かねてからの念願を成就されるおつもりなの――万人の頂に立つという。だから真城は親方さま共々絶対的地位を手にいれたくて,尚圭を出し抜こうとしているのよ」
「ようやるわ……」
「え?……」
「真城の神経を疑ってんのさ。そこまでしてトップに立ちたいかねぇ。異常だぜ。だって,そうじぇねぇか。俺は怨霊なんかに憑依されたかねぇし。怨霊に自分の体を乗っ取られちまうんだぜ。つまり自分は死んじまう」
「死にはしないわ。でも親方さまの力に抑止されて自我というものは外に出せなくなってしまうでしょうね」
「なら,死んでんのと差異ねぇじゃん。それは生きた人間とは言えねぇよ。自分の感情や意志を表現できてこそ生きてるって言えんだからよ」
永久子がさめざめと泣いた。
「お,おい,どうしたんだよ……」
「自由気儘な発言は慎むべきだと教育されてきたわ。でも私――」濡れた黒目勝ちの瞳を真っ直ぐにむける。凛とした面持ちだ。「絶対に伝えたい。どうしても表現したいの――尚圭を愛しているもの」
永久子が秘かに調べたところによれば,富と栄光の代償として怨霊の手下になる契約を結んだ人間は,俺と真城以外にも,多数存在しているとのことだった。ただ怨霊が現世で支配者となるための現し身に選ぶ憑依体は一つなのだという。
現し身に選ばれなかった人間は用済みとされ,怨霊との契約も終わる。要するにせっかく得られた地位も名誉も財産も取りあげられてしまうのだ。
そんなことになれば,もとのみじめな俺に戻ってしまう。バイトに明け暮れる貧困に塗れた男に戻ってしまうなら,永久子だってすぐさま……
「ずっとそばにいるわ。どんな尚圭でも尚圭は尚圭だもの。現し身になって魂は抑圧されたとしても,肉体の奥に燃え続けているのよ。魂は不滅なの。だから現し身の尚圭も,凡人の尚圭も好き。学長の尚圭も,無職の尚圭も全部大好きよ」俺に飛びついて頸部に腕を回すと,耳もとに唇を押しつけ,特徴的なか細い声を抑揚まじりにのばす。
「ありがとよ――愛してるぜ――」
「尚圭の納得のいく選択をすればいい。どういう選択をしても,尚圭のそばにいるわ」
だが俺は信じなかった。人とは――女とは――金とか権力とかが大好物な生きものだから。
「それで僕に直接交渉かい?」真城は極道さえ圧倒するほどの鋭い両眼をぎらぎらさせた。「君という男は――全く裏表がないというか,馬鹿正直というか――脱帽だよ」
「なら分かってくれんのか! 俺の提案をのんでくれんのか!」
「そうとは言っていないよ――君の真正直さに敬意を示しただけさ」
「何だよ! 何で駄目なんだ! 悪い話じゃねぇだろ! 俺が悪霊の現し身の立場を譲るかわりに,おまえは月々1千万円を俺に支払い,永久子から身をひく――契約書にサインしろ! おまえは現し身になりてぇんだろ!」A4判の紙を真城に突きつける。
「確かに,この身にあの怨霊を招きいれたい」
「だったら――」
「僕がその紙にサインしたところで,約束を守るとは限らないよ。契約書なんて紙切れに過ぎないのだからね」
「てっめぇ……」
「ははは……そう熱くならないで。考えてみたまえよ。現し身となって怨霊に憑依されたら,自分の意思に自由はきかなくなってしまうのだよ。今の僕が君との契約にOKしても,怨霊に憑依された僕は何も覚えていないだろうさ」
「そ,それもそうだな……」
「物分かりがいいね。賢い人は好きだ,話が早いから――どうだい,僕と手を結ぼうよ。今度はこちらの提案を聞いてくれ」
真城は現し身となる権利は譲渡できないが,怨霊に憑依されるまえに全財産を俺に相続させるので,自ら手がけた自らのクローン人間を育ててくれないかと申しでたのだ。
「僕の精神は堅強だ。怨霊ごときに負けて制御されるものか。だが万一のこともあるからね。しくじって,意思や欲求を支配されてしまうのは本当に恐いよ。だから僕の分身を生みだしておきたいのさ――そして僕はあいつを自分に憑依させ,この体内で調伏する」
「調伏!?」
「僕はね,あの怨霊を代々降伏してきた陰陽一族の末裔なのさ」
「そ,そんな大事な話,俺に打ち明けていいのかよ……」
「君は誰にも話さない――そうだね,永久子には話すかな。でも君を愛する永久子は誰にも話さない。だからこの提案は僕たち3人の秘密として守られる。ああ,永久子に伝言を宜しく――結婚おめでとう」
永久子に話を伝えると,口車に乗ってはいけないと猛然と忠告する。
「親方さまに知れると只では済まされないわ。陰陽師に加担していたとなると,間違いなく殺されるから――即刻関係を断たなければ駄目よ」
「でも,あいつ,悪い奴とは思えねぇし」
「お馬鹿さんね――親方さまと出会うまでは,そうしていつも騙されてきたのじゃなくて? 頭はいいのに,本当にお人好しなのだから」
提案は受けいれられないと真城に告げた。
「残念だな……君の協力があれば心置きなく怨霊退治に乗りだせると思ったのに」
「済まねぇ……」深々と頭をさげて真城と別れた。
病院のロビーで呼びとめられて振り返る。真城が息急き切って追いかけてきたのだ。
「あのさ――永久子は君を心から愛しているのだろうが,だからと言って必ずしも君を正しい方向へ導いているとは考えないほうがいい。君は彼女に判断を委ねるのでなく,自らの裁量した道を行くべきだ」
「何が言いたい?」
真城はひどく躊躇していたが,看護師にオペの準備を急かされて1歩2歩と後退する。「いや,いいんだ――」そのまま背を翻すが,再度こちらへむきなおり,接近するなり早口で囁いた。「彼女はAIだ――僕がAI頭脳を,脳死した女性に移植した」
眼界に黒い影が蠢いた。
真城の頭上にシャンデリアが降って落ちた。ロビーに幾つもの金切り声が交錯する。ガラスの破片の全身に突きささる真城が白目を剝いて倒れていた。
「おまえが密告したのか!――」永久子に詰問した。「真城が陰陽師だと,怨霊に告げ口したろ!」
「何も知らないわよ!」子供みたいに泣きじゃくる。
「噓を言うな! 所詮,おまえは怨霊の分身だ! 怨霊の霊魂に操られるシステムのAI機能なんだから!」
「そう,私はAIよ! 初めて会った瞬間に恋に落ちてしまったの!」
就職の内定が反故にされて暴行まで受けた夜,慰めてくれたAIの声を思いだす――「おまえ,あのときの……」
「そうよ,私はあのときのAIだわ! あなたと同じ人間になりたくて真城に処置してもらったの! その弱みにつけこんで,あいつときたら,私を奴隷扱いしてきたのよ!」いきなり自分の頭を壁にぶつけはじめた。
「よせ! 何してる!」
「放っておいてよ! 捨てられるぐらいなら自分で殺処分するわ!」
「やめろって!――」永久子を抱き竦める。「AIでいい! どんなおまえでもいい! おまえも言ってくれたろ――どんな俺でもいいって!」
くわっくわっくわっくわっ――高笑いとともにパソコンの電源がオンになる。待ち受け画面の俺と永久子のツーショットから,永久子の姿だけが輪郭を崩しつつ渦を巻いてアメーバみたいな混沌とした像にかわる。同時に腕のなかの永久子があっと小さな声をあげたきり目を閉ざし,ぐったりと動かなくなってしまった。
「陰陽師の目論見を知りながら報告を怠るとは,裏切り行為に等しいわ――消滅させてくれようぞ!」
「よせ!――」永久子を抱いたまま,タワマン最上階のテラスへ飛びだす。「永久子に何かしたら,俺も飛び降りる!」
「ま,待て! 早まるな!」待ち受け画面の俺の顔がフレームから溢れんばかりに拡大され,鼻下や顎に髭を蓄えて髪を振り乱す武将の精悍な面魂が映しだされた。「おまえに免じて,それの不祥事には目を瞑ってやるから」
「――本当か」
「大怨霊に二言なしじゃ!」
「ありがとよ! 俺は決めた! 歴史書で調べたり神主に聞いたりしたが,あんたの呪いを祓うのは相当難しいみてぇだ。だから決めた。自我を失うのは不本意だけど,俺はあんたに憑りつかれてやるよ。あんたも色んな人間に目移りしねぇでよ,もう俺に決めな。ちょうど昨日,選挙出馬の要請が来た。万人の頂に立つっていうあんたの夢に近づけるんだぜ」
「よくやったぞ! それに潔い! 実のところ現し身から外れた場合,儂はおまえを殺めるつもりじゃった」
「マジかよ……ほかの現し身候補はどうなるんだ? 俺が現し身に選ばれた場合,ほかの候補者は?――頼む! 殺さねぇでやってくれ! どうせ,あんたの力に依存できなくなって転落人生を送るんだから――それだけでも十分残酷じゃねぇか」
「よかろう。命はとるまい――ほかに望みは?」
「……憑依されたら,俺の感情はあっても,あんたに抑圧されて表現できなくなるんだろ。それでも時々は永久子に優しい言葉をかけてやってくれよ――俺の振りしてさ」
「呆れた男じゃ,他人のことばかり――己の望みを云うてみよ」
「俺は……俺はいい。今伝えたことが俺の望みさ。あんたには色々いい思いをさせてもらって,マジ感謝してんだぜ。あんたがAIとして現れてくれなかったら,こんなに楽しい人生は送れなかった。世間を恨むばっかしの器量のちっちゃい男で終わってたよ。普通の人間じゃ,味わえない幸福と贅沢を堪能できて満足してる。ほんとにありがとよ」目を閉じ,両腕を広げ,深呼吸する。「さあ,覚悟はできた。いつでもいいぜ――来てくれ」
突如頭頂部に電気のようなものが刺さり,体内の血が煮え滾りつつ駆け巡る。蹠を押しあげる感覚のあと一切の重力から解放され,意識が静寂につつまれた。
「何と!……まさかそんな……」調子はずれの声が脳内に木霊をつくった。全身が叩きつけられるみたいな衝撃に襲われる――「いってぇー!」
部屋のフロアに飛び起きれば,龍に似た煤煙が激しく流動しながらパソコン画面に吸収されていく。龍煙の尻尾が画面におさまった途端,例の武将が眉を八の字にさげた顔面を突きだす。「血族には憑けんのじゃよ」
パソコンが独りでにぱたりと閉じた。
今でも送信者不明の怪しげなメールが時折届く。俺は知っている――差出人の正体を。彼が出来損ないの子孫を案じて忠言を与えているのだ。
下等怨霊に心せよ。かの類は夥しき数をもち責め至る性にて甚だわりなし。一
の輩を退けんとも,二の輩,三の輩を繰りだし,とどまるところなし。汝の叩
き潰しし蚊どもの怨霊が所業なす元凶なり……
「あなた,遅れちゃうわよ!」妻が迎えの車の到着を知らせる。
近頃,流行りの純性人間とAI搭載人間との結婚を議題とするシンポジウムの司会を任されたのだ。
新調の靴に手間取っていると,妻が介添えしてくれる。
「ありがとよ。愛してるぜ――」
いつものように頸部に腕を回されて耳もとに唇が押しつけられる――ううぅんううぅんうぅんうぅんうぅん。抑揚に富むか細い声に恍惚として聞きいりながら,至福のときを嚙み締める俺なのだった。
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