刻印

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 〜Eine〜 「アイン」  鈴のなるような声と共に伸ばされた、白魚の如く美しい手。……ただ、清らかで真っ直ぐな白百合は、私には眩し過ぎる。  ――私にとっての唯一は、貴女にとっての凡百で。あの人を見殺しにした罪人が、得られるはずもない尊さだった。  ◇◇◇◇  破れたカーテンの隙間から差し込む、眩い朝日に目を瞬く。今日は何曜日だろう、と寝惚けた考えを遮るように、シスターの尖った声が響き渡った。 「さあ、いつまで寝ているの!? 皆、さっさと支度なさい」  最年長の私より小さな少女たちが、慌てて飛び起きる気配がする。途端に騒がしくなった室内を尻目に、布団の中でおよそ支度を終えていた私はするりと起き出した。 「おはようございます、シスター」 「急いで朝食の支度をしてちょうだい、使って良いものはメモに書いてあるから」 「かしこまりました」  私は一礼すると、早足で厨房に向かった。ダイニングテーブルには、ほんの少しの食材と、そのうちどれが子供たちに充てられるかの分量表。明らかに昨年より減ったその量に溜息を吐きつつ、とにかく調理に取り掛かる。急がなければ、私も学院に遅刻してしまう。……遅刻や無断欠席には特に気を遣わなければならない。なぜなら、ほんの少しの不備であっという間に追い出されてしまう身の上なのだから。  ◇◇◇◇ 「……おはようございます」  ぼそぼそと規律違反にならないためにのみ挨拶を囁き、私は席に着いた。同時に、私の周りは侮蔑に満ちた視線で数度温度が下がったような心地がする。  そのまま無言で教本を開き、ただ時間潰しのため眺めていると、教室の入口付近がざわめいた。何事かと一瞬気を遣り、何時ものことかと視線を伏せる。 「皆さん、ごきげんよう」  深窓の令嬢、リリィが登校したのだ。彼女の周りにはわっと人だかりができ、私からは様子が窺えない。  圧倒的才女、リリィ。彼女がそこにいるだけで、教室は華やいだ空間になる。皇家の血縁という高貴な身分に似つかわしい、艶やかな美貌。それを引き立たせる美しい白銀の髪。彼女の家紋に描かれた白百合をそのまま擬人化したような人間だ。まさに純粋で、清らかな乙女。  ……それに引き換え、私は孤児で、罪人の血筋。生みの親共々掛けられた黒百合の呪いは、私の全身を蝕んでいる。当然、蔑まれるべき人種。あのような身分にも才能にも恵まれた人間とは、一生関わるはずがない。……にも関わらず。  徐々に近付いてくるざわめきに、諦めて顔を少しだけ上げる。にっこりと微笑んだリリィがそこにいた。 「アイン、ごきげんよう」 「……おはようございます、リリィ様」  おそらく私が敬称を付けたことにやや不満そうな表情を浮かべながらも、彼女はふわふわと頬を綻ばせた。 「あのね、」 「リリィ様、こちらに」  そのまま話を続けようとしたが、取り巻きに遮られ即座に距離が取られてしまう。これも何時ものことだ。  この調子で、一日一言だけ彼女に関わることが、ここ半年ほど続いているのだった。  ◇◇◇◇  環境故か、ストレス故か。将又生まれ持った性質故か。私は幼い頃から病弱で、健全と胸を張れる日がほとんどなかった。お陰で悪徳教会のシスターには散々嫌味を言われたものだ。当然、具合の悪い中放置されたことだって数え切れない。しかし、それでも私は死ねなかった。  そうして育った痩せぎすの身体に、艶のない黒髪。片頬に黒々と浮かぶ呪いの印。加えて、呪いの影響で眼球が黒化し、視力が失われた右目。醜く見窄らしい私は、形だけ通っている学院でも無視を決め込まれていた。  ――黒百合の呪いとは、皇家への叛逆を企てたものに掛けられる呪いの名称だ。例えば私の両親は、二十年前の第一皇女を弑しようとして捕まった。何でも、第二皇女を次の為政者に仕立てようとする過激団体に所属していたらしい。  そして両親は差別や呪いに耐えかね、私の産まれた日に心中した。産まれたばかりの私はその日のうちに両親同様の呪いを掛けられ、教会の孤児院へと送られたそうだ。  ずっと鳴りを潜めていた呪いは、七歳の誕生日を迎えたとき、何の前触れもなく発動した。片目の失明、身体に浮かぶ痣。理由もなく溢れる破壊衝動。当時の私は訳もわからないまま独房に放り込まれた。  あれから時折押し寄せる、黒百合の衝動。花言葉の「復讐」になぞらえ、皇家に叛逆したものに与えられる破壊衝動。……なぜこんな、叛逆罪で捕まった人間にさらに破壊衝動を与えるという、皇族を危険に曝すような罰が存在するのだろう。  私は昔から、この捻くれた慣習が大嫌いだった。今では、さらなる罪を犯させることにより死罪の大義名分を得ようという思惑から生まれたのだろうと推測している。  ――実際、一度呪いを受けて再び叛逆した結果処刑される罪人はそれなりに多いのだ。ただでさえ憎い者たちへ、呪いが憎悪をけしかけるのだからたまったものではない。  ……私の場合は、恨みを覚えるほど皇家に思い入れは無いけれど。破壊衝動は無意味に溢れ、矛先は自然と高貴な者へ向く。  こうした呪いの詳細は私たち当事者しか知らないものの、国内で差別の対象となっている。罪人なのだから当然後ろ指を差されるのだが、呪いは外見にも表れるため、余計に差別を助長しているのだ。  ――だけど、案の定というべきか、リリィの反応は一風変わっていた。 「私は、右目が見えないから」 「え、本当?」  半年ほど前、最初にリリィと昼食を食べた日。話の流れ上つい溢した私に、リリィはじっと顔を近付けて瞳を覗き込む。美しい相貌が嘗てなく近付いて、私は必死に心臓を宥めた。  豊かな睫毛が、ふわふわと二重の丸い瞳を縁取っている。侮蔑など微塵も含まれず見開かれたその瞳はきらきらと輝いて、私は目を逸らしたくて堪らなかった。……誰かとしっかり目を合わせたことなど、あの人がいなくなってから一度も無かったのだ。  ◇◇◇◇  ――数年前まで私には、心から信頼した家族がいた。隣の孤児院にいた、一歳上の少女だった。向こうの環境は私の生活より劣悪で、かといって連れ出すことも私にはできず、二人して慰め合う日々を送っていた。  あの日、彼女は突然私に手紙を持って会いにきた。……思えばそのときから、何かの予感はあったのかもしれない。  なのに私は、何もしなかったのだ。遠くへ行くと告げる様子に、嫌とは弱く伝えたものの、またね、と手を振る彼女を、録に引き留めず黙って行かせてしまった。二人なら、逃げられたかもしれないのに。死なせることはなかったかもしれないのに。  自死も含めて、それが彼女の幸せなら、自分が足手まといになってはいけないと思った。自分が寂しいなんて無責任な理由で、引き止めることは出来なかった。  ――そうして1年後、彼女は遺体で見つかった。死亡推定日時は、発見の1年前。つまり、別れたあとすぐ亡くなっていたのだ。  私のせいで。  私が、無能だったせいで。  諦めたせいで。  頭では、引き止めたとて彼女を幸せに出来なかったことは分かっている。今更、何を思い付いても彼女は帰ってこないことも。……それでも、私にもっと力があれば。せめて、何とかするから待ってほしいと言っていれば。何か変えられたかもしれない。濁流のような後悔が、降り積もっていた寂しさと共に私を絶望の底へと突き落とした。  ――私は所詮、肝心なときに何も出来ない、臆病な役立たず。人でなし。人殺し。  意図的に思い浮かべていた自身を詰る言葉は、いつしか無意識に湧き上がるようになっていた。  ◇◇◇◇  リリィは何かにつけて私を構い倒した。初めのうちは昼食に誘ってきたり、通りすがりに手を振ってきたり。徐々に、特に用もなく私の近くに来るようになった。課題について質問に来ることも増えた。……今思えば、私などより遥かに優秀な彼女が何かを質問する必要は微塵も無かったはずなのだ。 「ねえ、この魔道具の理論、ここがおかしいと思うんだけど。どう?」 「……えっと」  ただ、無能で気の利いた議論も出来ない私でも、答えのない問答を真剣に投げ合うことは楽しかった。  いつしか彼女は私の中で、警戒すべき対象から日常の一部へと変わっていった。いつまでも私に飽きずに、出来るだけ長く親しくしてくれたらと願っていた。  リリィの意図が分からないまま逢瀬を重ねるうちに、私は少しずつ現実に馴染んでいった。毎夜寂しさに打ちのめされ己を詰り続けていた日々が、徐々に柔らかい光で満たされていく。  ――あの日から絶望し続けていた私を、僅かでも引き揚げてくれたことは、感謝してもしきれない。貴女が望んでくれる限り、私は貴女がくれる以上のものを返し続ける。 「あ、そうだ、」  と、ある昼下がりに脈絡なく手を打った彼女は、いつもの甘い微笑みを浮かべて口にした。 「誕生日、おめでとう。これからもずっと一緒にいてね」  私は心臓を撃ち抜かれた気がして、呆然とリリィを見返した。  私を真っ直ぐ見据え、暖かな陽だまりのように微笑む少女。私はいつ、誕生日など教えたのだろう。同年代に祝われたことなど、何年も無かったことだった。あの人だけが、私を見てくれるのだと思っていた。  ――しかし。  強く焦がれ、喪い、得られなかった幸福をとうとう差し出されたとき、私の思考は無惨にも黒く塗り潰された。  人殺し。  人殺し。  久しく聞いていなかった声が遠く響いている。  ――かたかたと震える身体で、最後に私の耳に届いたのは、自分の喉が鳴るひゅっと乾いた音だった。  ◇◇◇◇  〜Lily〜 「違う、違うの。私はそんなじゃない」  突然、アインは焦ったかのように声を引き攣らせると、素早く後退った。私が咄嗟に手を伸ばすと、片手で痣が残りそうなほど握りしめた腕を引っ込める。  それにさっきから、一度も目が合わない。いつも怯えたように前髪の隙間から向けられる澄んだ視線は、今や完全に恐怖に染まり、黒髪の向こうに隠されている。  私には、彼女が突然変貌した理由が分からなかった。 「ごめんなさい、ごめんなさい……」  呟く彼女は、そのまま踵を返し風のように去っていく。  ……何となく、あの謝罪は私に向けられたものではない気がした。  黒百合の呪い。  いつか貴女が口走った言葉が脳裏に浮かぶ。叛逆罪と共にしばしば話題に上がるこの言葉は、国の機密事項であり、当事者や司法機関以外誰も詳細を知らない。何か禍々しいものなのだということしか知られず、噂が独り歩きし、咎人たちの自由を奪う。  ◇◇◇◇ 「お昼、一緒に食べてもいい?」 「……え?」  見るからに不審そうな素振りで私を見上げる瞳。それは長い髪に隠されて、感情をほとんど読み取ることが出来なかった。  その日私は、いつも歓談している友人が風邪で欠席し、暇を持て余していた。そこで、以前から気になっていた彼女に声を掛けようと決めたのだった。  ――彼女を初めて見たのは、実は入学式の日ではなかった。一ヶ月前の夕暮れ時、ある教会の前を通りかかったときに、偶然庭仕事をこなす彼女を見掛けたのだ。  すらりと背が高く、くるくる働く姿に見惚れていると、視線を感じたのか私の方を振り返った。私の身形から王家に近い人間と気付いたのだろう、慌てた素振りで正式な礼をした。  ……そのとき、長い前髪が揺れ、それまで気に留めていなかった痣がはっきりと見て取れた。私は初めて目にするそれに動揺しながらも、会釈を返して物陰に隠れた。暫くして、私が立ち去ったと思っている彼女は、再び草むしりや水遣りに集中する。  こっそり顔を覗かせ様子を窺っていると、かなり痩せてはいるものの整った顔立ちであることが判る。何より、生真面目で優しそうで。  同情か共感か、恵まれない身の上に興味が湧いただけなのか。仔細は知らずとも、私は彼女のことが頭から離れなくなっていた。  今思えば、何とも自分勝手な気紛れ。彼女にとっては良い迷惑だったかもしれない。  だけど、一度話したことでますます気に入ってしまった私は、事あるごとに彼女に接近した。……ただ、彼女は何度話し掛けても、自分から私に近寄ることをしなかった。歩いているときも絶妙に距離をとり、私の持ち物には決して手を触れない。それどころか、道端ですれ違っても私が声を掛けるまでは目も合わなかった。  明確に示される、他者との線引。しかしそれは、既に彼女に惹かれていた私にとって、彼女との距離を何とかして縮めようという意地を燃え上がらせる火種にしかならなかった。ただ、それを良くないと感じる者も少なからずいて。 「あの方と話すのはやめたほうが良いわ」 「何故?」 「だって、噂を聞いたことがないの?」  彼女に関しては散々な噂が飛び交っていた。曰く、あちこちで盗みを働いている。娼館出身の平民未満の出自である。自分も密かに娼婦として働いている。昔殲滅された呪術師の末裔である。等等、挙げれば切りがないほど数え切れない憶測が集まった。  ただ私は、彼女と話していて、悪意など感じたことがなかった。無論、私をどう思ってくれているのかは全く分からなかったけれど、少なくとも私を傷付けようという意思はさっぱり感じられなかった。そんな直感を信じて、私はひたすら彼女と関わり続けた。  ――そうしたある日、私は自分の直感を確信する。  ◇◇◇◇ 「私ね、お母様がいないのよ」  母親に感謝する慣習のある日、私は何とか知人の集まりを抜け出してアインのもとにいた。そこでつい、溢してしまったのだ。 「毎年、憂鬱なの。本当は、お父様の妾の子。お母様はそれを気に病んで死んでしまった。……名目上、お母様の娘ということになっているし、お父様も再婚なさっていないけど。母親と関わったことがないから、こんな日はよく分からないの」  何故か気が緩み、家からは絶対に外へ漏らすなと言われている話を、彼女に打ち明けてしまった。万が一広まれば、とてつもなく面倒なことになる。  我に返り、口止めをしようとしたときだった。  静かに、彼女が口を開いて、ただ一言、 「私もです」  といったのだ。何の感情も乗せず、ただ事実としてのみ伝えるように。 「私も、両親がいないんですよ」  同情も共感も語らず、それきり彼女は黙ってしまった。今まで感じたことのないほど、暖かで心地良い沈黙。……そのとき私は、何の事情も知らないけれど、彼女を信じようと決めたのだった。  ◇◇◇◇  放課後になっても、私は彼女の顔が忘れられなかった。追いかけようとしても姿は見えず、教室にも帰ってこない。結局下校時刻まで、彼女と話すことは出来なかった。  帰り道、真っ直ぐ帰る気になれなかった私は、迎えの侍従に断ってから少し中庭で休んでいた。  ……どれほど経っただろうか、することもなくうとうと微睡んでいると、突然背後に気配が現れた気がして目が覚める。振り返ると、身形の乱れた彼女が立っていた。 「先程は、申し訳ありませんでした」  思い詰めた雰囲気の彼女は、片手で必死に何かを抑え込もうとしていた。その手元は暗くてよく見て取れない。 「ううん、大丈夫。貴女こそ、大丈夫?」  浅い呼吸を繰り返す様子に、堪らず手を差し伸べると、ぐらり、と眼の前の体が傾いた。え、と思う間もなく、視界の端に刃物が煌めく。  ……避けられない、そう覚悟したとき。  既のところで切先の軌道が逸れ、鈍い輝きは鼻先を擦り抜けていった。傷付けられかけたショックで呆然としながら彼女を振り返ると、片手で短剣を必死に押さえ付けていた。 「ごめんなさい、ごめんなさい」  謝罪を繰り返す涙声が聞こえた。  こちらに向けられる短剣が、貴女の涙を反射する。  ……呪いだと、そう確信した。  私は何処か現実味の無い状況に、諦観しながら、彼女の泣顔に覚悟を決めた。  無言で僅かに距離を詰めると、彼女はざっと後退りする。理性はしっかり残っているらしい。だとすれば、どれほど辛いことだろう。  私は離れようとする彼女に構わず近付いて、尚も小刻みに震え、鈍色に光る刃を両手で掴んだ。瞬間、突風で髪が靡き、私は初めて彼女の瞳を真正面から見詰めた。  濡れた頬には、漆黒の痣が眩く光る。彼女を縛り操る、罪科の刻印。  滴る血に戸惑う手から、私は優しく短剣を奪い取る。 「私、私っ……」 「うん、いいの」 「でもっ」  大きく震えた彼女を、私は腕の中に閉じ込める。身を捩り逃げようとしても、しっかりと手を回して逃さない。  ……私は遠縁とはいえ、皇家の血筋だ。今の彼女の行為は、立派な叛逆として断罪されるだろう。ならば、私に出来ることは一つだけ。  ……こんな禍々しい呪い、私が存在価値を無くしてやる。  私は皇家の証たる白髪を無造作に掴み、血の滲む短剣をあてがって一気に引いた。ざくり、と小気味よい音がして髪が風で運び去られる。 「大丈夫、私が全部何とかするから」  驚きに目を見開いて何か言いたげな唇を塞ぎ、白い首筋をつ、となぞる。途端に、彼女は耳まで赤く染まった。  慌てた様子の彼女を押さえ込み、貴族の娘を舐めるな、と心の中で付け加える。これでも汎ゆる教育を受けて、強かに育っているのだ。混乱で真っ赤に色付く頬が堪らなく愛おしい。……私はこれで、貴族の娘たる誇りを喪ったわけだ。少なくとも私の身内は、誰一人私を容認しない。娘の断髪は不吉を意味し、勘当されたことを示すから。  唇を解放して彼女の瞳を覗き込むと、潤んだ目には戸惑いや恐れが浮かんでいた。 「……良かったんですか、こんなこと」 「いいの、ずっと前からこうしたかった気がするから」  未だにアインは、まともに私の眼を見てはくれないようだった。  ――それでも。  私は何度でも、貴女の名前を呼ぶだろう。  貴女がいつか、私を真に受け入れてくれるまで。……本当の意味で貴女を、幸せに出来るまで。
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