春の喪失

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「お母さんはもうダメなの。手術して脳を取り替えなきゃ」  嫌だ。お母さん、行かないで。死んじゃ嫌だ。 「死ぬ訳じゃないんだよ。ただ体の一部がダメになったから取り替えるだけだ」  でも、でも、脳を取り替えるってことは、少しだけだっていっても、お母さんがお母さんじゃなくなるんじゃないの? 「ご安心ください、今はAIの精度が昔に比べ大変良くなっておりまして、進化したディープラーニングによって、多少時間はかかりますが、お母様は以前と同じようにお母様のままでいられますよ」  でも。 「健佑、考えてみろよ。お前のばあちゃん、白内障の手術で人工レンズを入れたけど、お前のばあちゃんのままだろ。昔は不治の病だった白内障が、今じゃその影も見ない。人間の体は機械の部品みたいに、人工物と交換できる時代になったんだよ。お前の母ちゃんも頭の一部がAIに変わるってだけだよ、一緒だろ」  でも。  でも、それって、本当に僕のお母さんなの?  急速に底なしの暗闇へ落ちてゆく感覚がして、勢いよく上体を起こす。  時計は夜中の3時18分を指していた。寝巻きは汗で濡れている。いつものことだ。  ふっと力を抜いて重力に身を任せ、僕は背中からベッドへ落ちる。ばねは一度僕の体を受け入れたが、無理に受け入れた反動か、すぐに拒まれ押し返される。その往復を僅かな時間で繰り返し、やがて自分の心地よい居場所を見つけたらしいばねは、静止した。    あれから一年半か。  母さんが事故で病院に運ばれてから、一年半。  それは悪夢の始まりであった。  夢も、現も。  クローン技術が発達し、死んだ愛犬のクローンを作る商売が流行っているというニュースを最近はよく耳にするが、僕には理解ができない。倫理的に人間では認められていないだけで、可能であればそこに群がる客は多いのかもしれない。  遺伝子が同じだけの、生命体。  決して同一ではない、生命体。  遺伝子だけで個人を同定するだなんて、馬鹿なんじゃないか。作られたそいつだって、折角生まれてきた命だっていうのに、故人と重ねられ、個人を無視され、とんだ迷惑を、無礼を、働かれるだなんて。  回転し始めた頭を減速させたくて、停止させたくて、夜のしじまに集中しようとする。  しかし、それは却って逆効果であったことに気づき、後悔した。我が家の夜は、その色のない静寂の中に、機械音の無機質が薄らと色づいている。「母」の音だ。夜中に「脳」を同期せねばならないため、嫌でも毎晩聞かざるをえなくなった。  母さんだって。  あんなゾンビみたいに生きることは望んでいなかっただろう。  あの日から、母さんの思考は、意思は、死んでしまっているんだ。  肉体だけが、生かされている。  生者のエゴイズムと傲慢によって。  そう考えれば、あのモノも被害ブツなのだろう。  何度も何度も繰り返し辿った思考。寝汗による目覚めから始まり、深く刻まれた轍をなぞって、終点へと向かう。  昔、母が星座を模るように天井へ貼った丸いシールが朧げになってゆき、目を逸らすために寝返りを打つ。左腹部が重力によって右へと引かれるのが分かる。両の目から湧き出る温かな流動体も、地球の核に向かって引かれてゆく。  あらゆるものは絶対的な、大いなる一点に向かってひかれてゆき、抗うことを許されない。  引かれ、惹かれ、退かれてゆく。    あのとき、父さんがいたなら。  あのとき、僕が大人だったら。  今頃母さんは、ちゃんと死ねたのに。  どれも土台無理な話であることは理解しているが、何度そう言い聞かせても、考えることを止めることは不可能であった。  父は軍人で長期出張があることは当然であり、任務上音信不通になることがあるのは仕方のないことであった。加えて僕はまだあのとき小学四年生で、母さんの治療の決定権など当然のようになく、周りの大人に従うしかなかった。  そう、どうしようもなかった。  そう、分かっているのに。  僕は嗚咽が機械音と共鳴するのを拒むように、頭蓋までシーツを覆い被せた。
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