春の喪失

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「釣りに行かないか」  父からそう誘われたのは、父のいる家に慣れた五日目の朝であった。二つ返事で承知し、支度を終えて車に乗り込む。父の運転する車に乗るのはいつぶりだろう。運転好きだった母は、いつもハンドルを父に譲らなかった。  準ちゃんはダメー、ここは私の特等席! 健ちゃんも早くご乗車くださいませー。  天真爛漫な笑顔で、僕らに向かってそんなことを言って。ふとそんなことを思い出し、不意打ちで熱塊が込み上がる。  後部座席からふと窓外を覗けば、あたりは霧纏う緑一面の森の中であった。窓を開け、春霞漂う涼風を思いっきり吸い込む。冷気が喉を伝って全身へ放散してゆくのが分かる。気持ちいい。  道なき道を振動に身を任せながら進むと、車は急に停止した。目的地に着いたようで、シートベルトを外した父に続いてドアを開ける。 「どこ、ここ」 「……山だ」 「……ここって勝手に入っていいの? 私有地って看板がさっきあったけれど」 「そういうことなら安心しろ。ここは俺の山だ」  そう言うと同時に、颯爽と父は釣り道具一式を持って木間を歩いていく。慌てて僕は父の後ろへと駆け出す。  広い背中。  高い上背。  息切れしながら駆けるように登る僕とは対照的に、父は恐らくいつもと変わらない表情で、進んでは止まり、進んでは止まりを繰り返す。決して振り返ることはないが、僕を待ってくれているのだろう。  そうだ。  父はそういう人であった。  どのくらい歩いたのだろうか。足先を見ることが多くなり、ついに顔を上げることすら叶わなくなって、肢体が酸素の供給を声高に叫ぶようになった頃、父が歩みを止めた。父の一歩後ろで両の手を膝につき、全体重を足へと移す。  体内の空気を大量に入れ替え、漸く落ち着いた僕が顔をあげると、そこにはまさに山紫水明と言うべき池がひっそりと存在していた。  緑深い春山の林間を、神様がひと掬いしてできたのだろうか。  時刻はお昼前であろうに、茂った葉によって薄暗さの漂うこの森も、池の一帯だけは光芒で溢れており、池水も交えたさんざめく戯れに思わずため息が出る。  池は底まで露わにしており、秘密の花園よろしく、人の訪れない幻であることに油断して、その恥じらいを忘れているようであった。  黄色い蝶が小さく舞い、白い花が小さく花笑みを浮かべる。  その陽光に包まれた春の穏やかな池のほとりは、天界の女神の遊びを盗み見しているような、それでいて幻のような温かさを覚えるような、そんな背徳感を持つ光景を携えていた。   青々とした草を踏みしめ池に沿って少し歩くと、1mほど間隔を開けて並んだ二つの円石が見えた。仄かに苔を呈したこの石は、自然にこの地に流れ着いたものではないだろう。この池の常連が、古人(いにしえびと)と二人並んで歓談するために自ら運び置いたのであろうか。  荷を下ろし奥に座った父に続いて、僕も手前に腰掛ける。  どこからか鳥の鳴き声が聞こえる。鶯であろうか。  暫くこの景色に溶け込み、その明媚さに身を任せていると、父が口を開いた。 「一番辛い時期に、一人にしてすまなかった」 「……うん」  ぼんやりと目の前の景色を映しながら答える。ふと足元を見ると、投げやすそうな小石が静かに佇んでいる。  右手でそれを拾い、弄ぶ。僕の手に収まりが良く、指で遊ぶにちょうど良い石だ。池に沈めるのが惜しくなる。 「……町田先生の話はもう聞いた? 母さんの主治医の」 「……まだだ。来週の水曜に予約を取ってる」 「じゃあトキおじさんの話は聞いた? アキ兄は?」 「……家に帰る前に寄って話を聞いてきた」  それなら、母さんが、「母」が、どういう経緯で今どういう状態なのかも分かるだろう。僕はこの数日間、どうしても父に問いたかった質問をしようと、体中から勇気を総動員する。胸の下で僕の生の主張が暴れ始めるが、無視を決め込む。 「……父さんは、母さんを見て何とも思わないの?」  一瞬の静寂。  固定された視線。 「……思わないわけではない、が」  曖昧な返事。  交差のない会話。  それからなんとか父の思いを聞き出そうとあれこれ質問を投げかけるものの、父はのらりくらりとした回答しかしない。  僕は苛立つ。  そしてついに立ち上がり、叫んだ。 「どうして父さんは母さんがあんなになっても普通に振る舞えるんだ! もう俺たちの知ってる母さんじゃない、あんなの偽物だ! 父さんはそれでなんとも思わないの? 母さんヅラしたあいつを見て、なんとも思わないの?」  肩で息をしながら、父に向かって激しい空気の振動を浴びせる。  あんなの母さんじゃない、あんなの母さんじゃない!  父さんは知らないからそんなふうに言えるんだ、病院で再び母さんが目を開けたとき、母さんは僕を見ていなかった、虚な目で、母さんは、いや、あのモノは──。 「ここはな、母さんと父さんのデート場所だったんだ」  父の声が僕の思考を遮る。  変わらず父は視線を池の先の先を見て──恐らく時空を超えた古に一人帰り、在りし日の彼女を見つめながらふっと笑う。 「お前が今座っていた場所に、座っていた」  そして、それなのに、と彼が言葉を発した瞬間、その眼はあたりの陽光さえ届かない深淵を映し、つぐむ。 「……俺だって脳はもう晴子じゃないことは分かってる。脳がやられちまったら、その人特有の考えだとか感じ方とかも消えちまうんじゃないか? 現に、帰宅して最初は、晴子は接し方はまるで他人だった。人工知能だかなんだか知らねぇが、本人に限りなく近づけることができるっつっても、そんなことされたらどうしても偽物に感じちまう」 「そうでしょ、だから、」 「……だけどな、」  一際声を張り上げ僕の発言を抑制した父の途絶えた声音は、震えた呼気として空気を振動させる。眉間をきつく抑え、俯きがちに、そして固く瞼を閉じた父は、何度も語ろうとはするものの、己の震える声を認識してはその震えを隠そうと、何度も体勢を整えようとする。 「……健佑、気づかないか。飯の味は、変わったか? 晴子の適当な味付け、誰がAIに教えられるんだ?」  あっ、と思わず発した声をきっかけに、急速に、それまで構築された世界が倒れていく。まるでドミノ倒しのように──急速に、放散して、開けていく。 「脳の一部だけなんだ、晴子じゃないのは……。他は、確かにっ……、晴子なんだ……」  呆然と見る僕の視界には、葉並から溢れた影の下で、円石に坐した単孤無頼な独人(ひとりゅうど)の、必死に涙を堪えた姿が映っている。  彼の足先に広がる若草は、燦々たる陽光を飽き足ることなく浴び、風の愛撫を余すところなく受け入れ、その生を謳歌している。  生貧弱な水面輝く古池は、その全容を顕にし、掬った水は清澄さながら、底水に漂う修羅の苦患は隠しきれない。  僕は、今ここに広がる幻の、あらゆる刺激を身に感じながら、眠るように静かに目を閉じた。
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