春の喪失

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「母」を知らぬ父が帰ってきた。  僕との再会は実に二年ぶりであった。  学校からいつも通り帰宅し、玄関の戸をいつも通り開けると、そこには懐かしの靴が一足、行儀良く並んでいた。  途端に妙に落ち着かない感覚が僕の肢体を駆け巡る。それは期待なのか不安なのかよく分からなかったが、無理に冷静になろうと、いつもの僕には似合わぬ深呼吸をし、慎重に靴を脱いで並べた僕は食卓机のある部屋へと向かった。  普段当たり前のようにしている動作をろくに思い出すこともできず、少し湿り気の出てきた右手でドアノブに手をかける準備をする。耳を澄ますと父と「母」の話し声が聞こえる。  何を話しているかはよく分からないが、ひそひそと話しているあたり、あまり芳しくない雰囲気なのであろう。  僕は肩に食い込む鞄の重さも忘れ、思わず勢いよく扉を開ける。 「ただいま」  少し固かっただろうか。  食卓机では父と「母」が向かい合って座っていた。昔と変わらぬように殆ど表情を動かすことのない父と、少し驚いたように目を見開いた「母」が僕の視界に映りこむ。 「……お帰りなさい」 「……おかえり」  よく分からない。「母」はともかく、二年ぶりに会ったはずの父に変わった様子は見られない。恐らく、だが。大人とはそんなものだろうか。  ひとまず状況を正確に把握しようと、父の斜向いに腰を下ろし、じっと見つめる。  またまた母親なるモノがこちらを見て驚いたような表情を呈し、思わず心中で舌打ちをかます。本当はこいつの隣になんか座りたくないんだ。しかし父の様子を観察するためには仕方がないことだ。  父の次の言動を今か今かと待つ僕を余所目に、父は湯呑みを持ち上げ、のんびり茶を啜る。  濃紺の、縁が茶に染まった湯呑み。  父の湯呑みだ。  ふと見ると、急須の横には父の好きな玉露の茶筒が置かれており、腹の底から沸々と苛立ちが込み上がるのが分かる。  父が好きな茶の種類を入力されたからって、犬みたいに媚びやがって。 「……大きくなったな、健佑」  ぱっと視線を移すと、眼光に微かな笑みを浮かべた父が僕を見ていた。  急に声をかけられた僕はしどろもどろにながら、もう中学生だし、とやっとの思いで答える。今夜は家族で食べにでも行くか、という言葉に反応した「母」が支度をすると言って出ていき、束の間の家族団欒は終わりを迎えた。
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