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エレイン 2-2
小さい頃から、エレインは本の好きな子どもだった。買い与えた絵本や子ども向けの本では飽き足らず、学校の図書館の蔵書を片っ端から読破した。学生時代には――そうそう、あれはハイスクールの夏休み。こんなことがあったっけ。
『国立図書館に行きたい?』
学校の図書館の蔵書は、1年の夏までに読破した。市立図書館も、県立図書館も、州立図書館も、2年の秋までに読み尽くしたので、あとは国立図書館に通いたいと言う。
『電車で片道3時間もかかるのに……市立図書館から、相互閲覧システムで読めないの?』
年頃の娘を独りで遠出させたくない、というのが親としての本心だ。市立図書館が家から1番近いし、図書館同士は蔵書のデータ閲覧が出来るから、移動時間の節約にもなるだろう。
『データ閲覧非対応の書籍は、諦めろっていうの?!』
親心も知らず、エレインは椅子から立ち上がると声を荒らげた。思春期になっても反抗らしい反抗のなかった彼女が、真っ向から噛みついてきたのには、驚かされた。……分かっている。知的好奇心に勝る欲求はないのだ。満たすまでの道程は遠いが、得られた時の充実感・達成感は、なにものにも代えがたい。
あの頃のエレインには、あらゆる分野に対する旺盛な“好奇心”があった。際限なく求められた“知識欲”は、彼女の成長と共に、世界へ宇宙へと向けられ、体験や実践の探究に変わるのだけれど。
「ふふ……懐かしいわ」
氷を浮かべたアイスコーヒーに、小さじ1杯分ほどのミルクを加える。ジワリとグラスに汗を滲ませながら、琥珀色の液体がまろやかな小麦色に移ろう。小皿の上のシャーベットに手を伸ばす。ひと匙掬って、ヒヤリとした塊を舌に乗せ……外に視線を向ける。窓に張り付いているのは、変わり映えのない縦縞の景色。
――サー……サー……サー……
リズム感のない連続音は単調で、眠気を誘う……。
「もぅ、ママったら……こんなところで転た寝しちゃって」
耳の底に届いた声が、意識を水面まで引き上げた。瞼を開く前に、娘の呆れ顔が目に浮かんで、苦笑いしてしまう。
あら、嫌だ。私ったら……眠ってしまったのね。
すっかり溶けたシャーベットに、ベージュ色のアイスコーヒー。グラスから流れた汗が、小さな水溜まりを作っている。
いつの間にか、天井のオート感知システムが、自然光に近い柔らかな明かりを点していた。睡眠モードに切り替えていないので、室内に誰かいれば、仮に眠っていても照明が落ちることはないのだ。
「エレイン? 帰ったの?」
静けさが耳につき、辺りを見回す。ダイニングキッチンにもリビングにも娘の姿はない。
「エレイン?」
どんなに不機嫌でも、私を無視することなどない子だ。ダイニングを出て、一通り家中を探してみるが、どこにも彼女はいない。やはり空耳の類だったのだろう。近頃、聞こえない音を拾うことがあって困る。
「ま、もうこんな時間!」
壁の時計の長短の針が、左下に集合している。寝ぼけている場合ではない。エレインが帰ってくる前に、夕飯の支度をしなくては。
冷蔵庫に近づいて、マグネットに留められたメモに気付いた。
『ママへ。今夜は遅くなるから、先に休んでいてね。夕食は職場で済ませてくるので、心配しないで。エレイン』
そうだった。最近、残業続きだとかで、彼女は家で夕飯を取る暇もないのだ。早出して1日中働き、夜遅くに帰宅して、短時間だけ眠る――しばらく私は顔も見ていない。
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