クローゼット (3300文字:全3ページ)

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クローゼット (3300文字:全3ページ)

 これは二十代後半の男性、沢口さんの(だん)である。  沢口さんは大学を卒業後すぐに広告関連の仕事に就いた。  その就職をきっかけにひとり暮らしをはじめることになった沢口さんは、ワンルームマンションへ引っ越した当日に奇妙な体験をしたのだという。  ひとり暮らしの荷物はたいして量がなく、午後六時過ぎには、()(ほど)きを含めたすべての引越し作業が終わった。  沢口さんは缶ビールを開けて一息ついていた。すると、なにかを指で引っ掻いているような小さな音がどこからか聞こえてきた。  カリカリ……カリ……カリカリカリ……  音のするほうに目を向けると観音開きのクローゼットがあり、その扉を開けてみると音が少し大きくなった。どうやら、クローゼットの中で鳴っている音らしい。  カリカリカリ……カリカリ……  音がしているのはクローゼットの左壁で、その壁の向こうには隣の部屋がある。  もしかしたら、隣人が爪で壁を引っ掻いているのかもしれない。たとえば壁に貼りついたシールなどを剥がし取るために。  そう思う一方で、別の話が耳の奥によみがえった。  この部屋を内見して借りるかどうか検討していたさいに、不動産会社の担当者が言っていたことだ。 「隣の部屋は今のところ未入居です。もちろん、いつかは入居者が決まるでしょうけど、しばらくは隣に気を使わなくて済みますよ」  しかし、思いのほか早く次の入居者が決まったのだろう。  沢口さんはそのように納得して、クローゼットの扉を閉めた。  カリ……カリ……カリカリカリ……  壁を引っ掻くような音はまだ聞こえていたが、大きな音であればともかくごく小さな音だ。別段気にはならない。  沢口さんは放っておくことにした。  しかし、小さな音であっても長時間続くと気になりだすものだ。  缶ビールを飲み終えてもクローゼットの中で音はしていた。コンビニで夕食の弁当を買って帰ってきても、その弁当を食べ終わっても音はやまなかった。テレビを観て風呂に入ったあとも、カリカリという音は続いていた。  そして、夜中の一時を過ぎても相変わらず音は聞こえていた。  カリカリ……カリカリ……カリ……  さすがに沢口さんはイライラしてきた。  いくら小さな音でもこれは近所迷惑だ。怒りを抱えたまま隣の部屋に向かって玄関ドアの前に立った。  苦情を直接告げると相手に逆ギレされるかもしれない。だが、学生時代にラグビーをしていた沢口さんは、身体(からだ)が大きくて腕っ節にはそこそこの自信があった。トラブルになってもなんとかなるだろう。  そう考えて隣室のインターホンに指を伸ばした。
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