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にがいあじ
前照灯が暗闇を穿ち、雑木林の隙間に羽ばたく影を見た。窓を開けてみると、秋の夜長に寄り添うようにフクロウの鳴き声が木霊となって耳に届く。岸壁のガードレールに吊るされて走る車の窓から顔を出すと、高低差によって練り上げられた冷たい空気が肌に触れる。
「どうして態々、夜に来るの」
「夜のほうが雰囲気でるだろ?」
「聖職者の口から出たとは思えないな」
「今のお前に聖職者のなんたるかをご教授して頂けるとは光栄、光栄」
運転席から泳いでくる紫煙が目の前を通り過ぎ、窓へと抜けていく。
「私はこの仕事を誇りをもってやっている」
「その誇りに殺され掛けたのは悪い冗談か?」
建設的なやりとりを初めから望んではいなかったが、同じ空気を共に吸って吐くことすら、不快に感じたのは今回が初めてだ。私は目の前の流れる景色にだけ、注意を向けることにした。
同じような景色が続く中、明確な変化は街灯の数と、山道特有の数十メートル進む毎に訪れるカーブによって催したある症状であった。私の顔を盗み見たであろう友人は、出し抜けに訊ねてくる。
「まさか、酔ったのか?」
「悪い?」
山の趣を楽しむために開けたはずの窓は、自身の毒気を抜くための都合に変わった。
「もう少しで着くから、吐くなよ」
「……」
返事を返すのも億劫になるほど具合の悪さは進行していた。はっきりいって、吐こうと思えばいつでも吐ける。喉を焼くようにせり上がってくる昼飯の残骸を生唾を何度も嚥下することで留めるような按配なのだ。車を人質に取ったつもりはないが、よほど吐瀉物で車内を汚されるのが嫌なのだろう。これまでにない丁重な扱いを受ける。
「吐きたいなら止まるぞ」
できるなら、私は吐きたくない。だから、いち早く目的地に着くことが男の急務だ。前方を指差して、それを伝える。
「頑固だねぇ」
身体が座席に張り付く。目では捉えられない、加速度的に発生する不可避の力は、アクセルがベタ踏みされたことによる、有り体にいえば「G」が私の身体に掛かったのだ。急な登り坂に相対していることを考慮してみても、唸りを上げるエンジンの音と流れる景色と合わせて、車が発揮する推進力に座しているという現実に、私は悲劇的に口に手を添える。急かしてみたものの、カーブの数は変わらないわけだから、「急がば回れ」と言ってやりたい。
切迫した山肌とガードレールは、一本道のような息苦しい狭さである。よしんば車と鉢合えば、どちらかが折れるまで睨み合いが続き、おそらく脅迫的なクラクションの応酬を見るかもしれない。そんな場面に出会ったとしたら、私は外に飛び出して徒歩で向かうことも想定しなければ。唾液の分泌もままならない乾いた口で訊く。
「まだなの?」
「もう少し行けば窪みに出る。そこで車を止めて、歩いて向かうぞ」
安心した。向かいから車が来たとしても、引き返すのは彼方のほうだ。安心して座り直し、車に酔った身体と向き合う為に目を瞑る。そんな矢先、友人から予期しない指示を受けた。
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