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悲しみよこんにちは フランソワーズ・サガン
悲しみよこんにちは(文庫2009年、原書刊行1954年)
著:フランソワーズ・サガン(1935-2004、フランス)
ラジオで朗読されているのをたまたま聴いて、気になって図書館で借りてみた。名著と呼ばれている作品。自分の文学力(?)では芯を食った感想はとても述べられないと思うので、開き直って後書きも読まずただ思ったことを記録することにする。飲食店でわざわざ料理の写真を撮らないのと同じだ。同じような写真はどうせ上手な誰かが撮っているのだ。
文庫版でいうと178ページという比較的くらい話なので、軽く読めるのではないかなと思っている節があったが、全然そんなことはなかった。簡単な1文、2文でも解釈が難しいのだ。説明不足とすら思える。そんなことはないのだろうけど。書き出しからこう。
”ものうさと甘さが胸から離れないこの見知らぬ感情に、悲しみという重々しくも美しい名前を付けるのを、わたしはためらう”
ものうさ?物憂さ?憂う的なこと?と、甘さ?が、悲しみ?
というようなクエスチョンマークが絶えず付きまとう。どうにか自分の知っている感覚の辞書から似たものを引っ張り出して読み進めるしかないのだけど、でも、分かるかもしれないというところまでは毎回持っていける。そうして最後まで読み切ることができる。当たり前ながら読む人を困らせようと思って書かれている文章ではないのだ。
こういう読み方をすると解釈がなん通りもできる気がするし、それまでの自分の人生経験で投影する感覚や感情が違ってくるのだろうなと思う。著者がこの小説で批評家賞を受けたのは19歳の夏だという。すごい。のかどうかもよく分からない。
最終的には主人公のセシルに対して何なんだコイツ。。という感想を持つのだけど、物語中盤ではセシルの、道を踏み外した策略にやったれと少し思ってしまうところもあり、また悲劇を迎えるアンヌも決して完璧な人間ではないので、誰が正しいという物語ではない。世間から見ればクズな親父も含めて、現実世界で悪者はいない。
セシルの抱えている幼さが、どのようにして捨てられるのか。心のままに生きることが叶わず幼さが捨てられるとき、そこに生まれる感情が悲しみなのだと、自分はそう解釈した。アンヌを憎んだセシルと、アンヌを必要としたセシルを両立させることは当たり前ながら不可能で、でも純粋にどっちも求めたから起きた悲劇なのだ。
(ちょっと本筋からずれる感想)
超然としたものなら嫌ってもいい、憎んでもいいという感情は自分の中にも少しある。お前らが俺に何されてもなんともないでしょ、気にも留めないでしょ、そう思って心の中で攻撃してしまっている人が自分にはいる。ただそれは自分は正しく生きている、生きていても良いんだと思いたいだけの心の流れで、攻撃される側の人も大きく傷ついてしまう人がいるかもしれない。その自覚は大事だ。生きるのって難しい。
\\\\\\\\追記\\\\\\\\\\\
後書きを読むと、学生運動が盛んだった当時の学生たちがこの本を読んでおしゃれな暮らしに憧れたみたいなことが書いてあった(適当略)。確かに夏休み長くて羨ましいなとは思ったけれどこういう暮らしをする人もいるだろうなと想像できる時代ではあるので、その辺は昔の人と感じ方は違うかもしれない。
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