9.12 竜の口の法難の日 (文永8年 1271年)

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9.12 竜の口の法難の日 (文永8年 1271年)

盆過ぎて なお暑い日々 記録的  病んでる身には ことに応える 夏の日の 夕立のごと 突然の  豪雨と雷 秋のはずなのに 🍀🍀🍀 竜の口の法難 文永8年(1271年)9月12日の深夜、日蓮大聖人が斬首の危機に遭われた法難。 大聖人は、9月10日に平左衛門尉頼綱(へいのさえもんのじょうよりつな) の尋問を受け、同月12日の夕刻に頼綱が率いる武装した多数の軍勢によって鎌倉の草庵を急襲された。 その際、大聖人は少しも動ずることなく、かえって頼綱に対し、 謗法を禁じ正法を用いなければ 『立正安国論』で予言したように 自界叛逆難・他国侵逼難が起こると 再度、警告された。 これは、第2回の国主諫暁と位置づけられる。 大聖人は捕縛され、鎌倉の街路を引き回されて、武蔵守(むさしのかみ)兼佐渡国の守護(しゅご)であった北条宣時(ほうじょうのぶとき)の邸宅に勾留された。 ところが、その深夜(現代の時刻表示では13日の未明。当時は夜明け前、午前3時ごろまでは前の日付を用いた)に突然、護送されることになり、鎌倉のはずれの竜の口あたりに到達した時、斬首が試みられた。 しかし突如、江の島の方から光り物が出現し、その試みは失敗した。 大聖人は、竜の口でのこの体験を通し、末法の凡夫(ぼんぷ=普通の人間)である日蓮の身は、業の報いをすべて受けてこれを消し去って、死んだととらえられた。 そして、法華経の行者としての魂魄が佐渡に流されたと位置づけられている。 すなわち、竜の口の法難を勝ち越えたことを機に、宿業や苦悩を抱えた凡夫という姿(迹[しゃく])を開いて、凡夫の身において、生命に本来そなわる仏の境地(久遠元初[くおんがんじょ]の自受用身[じじゅゆうしん]という本地[ほんじ])を顕されたのである。この御振る舞いを 「発迹顕本(ほっしゃくけんぽん)」と拝する。 この法難の後、大聖人は、北条宣時の部下で佐渡の統治を任されていた 本間重連(ほんましげつら)の依智(えち)(神奈川県厚木市北部)の邸宅に移動した。 一旦は無罪であるとして危害を加えないようにとの命令が出たものの、正式な処分が決まるまでそこにとどめ置かれた。 その間、反対勢力の画策により、大聖人門下に殺人・傷害などのぬれぎぬが着せられ、厳しい弾圧が行われた。その中で多くの門下が信仰を捨て退転した。しばらくして佐渡流罪が決定し、大聖人は10月10日に依智をたって佐渡へと向かわれた。
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