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多摩川の河原から中央線の線路へ向かう道は、途中、急な勾配となっている。それでも坂の上と下を行き来する人が昔からあって、辺りにはそんな人々が踏み固めた獣道のような小さい坂道がほつほつと幾つもある。
私が良く使う狸穴坂も、そんな坂の一つである。
ある冬の日、多摩川の河原で日がな釣り糸を垂れる釣り人を、こちらも日がな眺めていたところ、気がつけばあっというまに日が暮れてきた。私の気配に気づいていたのか、帰り支度の釣り人が魚を一尾、分けてくれた。一人でも道楽だが、こちらの視線に感心があったのが励まされたのだという。
労無くして立派な川魚を得たのだが、嬉しいよりもきまりが悪い。私は古びたコオトの前を合わせ、高台から聞こえてくるカンカンという踏切の音を頼りに真っ暗な坂道を家路に就いた。
北風は夜になって強さを増したか、秋に実った烏瓜がかさりかさりと風に揺れる。駅の周りこそ最近は電気が引かれ電気街灯が夜道を照らすが、狸穴坂の坂道は月明かり星明りに頼らなければ一筋の光明もない。
荒縄に括られた川魚がこの期に及んでびくりと跳ねた気配にも、うっかり足がすくむ夜道である。
今夜の月は遅いらしい。
真っ暗な坂を恐る恐ると昇っていくと、その先が何やらぽうっと明るい。これこそ狸にでも化かされた心持ち、怖々と注意深く近づくと、そこには見慣れぬ電灯が一本、真っ暗な夜道を照らしていた。
はて面妖な。こんなところに電灯なんぞがあっただろうか。
不審も怪訝もいったん引っ込み、ただ真新しい電灯のぴかぴかなペンキの照りも興味深い。ふんふんと匂いを嗅いでみたが塗りたて独特の臭いもない。狸が化けたにしては良くできている。
何が化けていたとして、心細く暗い夜道を照らしてくれる文明自体が有難い。私はしばし灯りの輪の中に佇んだ。
と、たったっと軽快な足音が坂の下から登ってきた。
灯りの中にいる私からその姿は見えづらいが、あっちからはこっちは良く見えるのだろう。目を細め、やがて灯りの中に姿を現したのは所々がほつれ破れたコール天の背広を着た若者だった。
「ちょいとそこの御大尽様」
親し気に掛けられた声には聞き覚えがない。
「誰だね、君は」
私の問いに若者がにやけた表情を見せた。どうも上品な有様とは程遠い。
「お見受けする限り、だいぶ良いお召ものだ、財布には金子をたっぷり仕込んでいなさるんじゃないかと思いまして」
「なんだ、寸借かね。生憎今の持ち合わせはこの魚だけ、君に遣れる小遣いなんぞ持ち合わせちゃあ、おらんのだ」
「おやそうですかい。じゃあなにか、質に入れて適当な金を引き出せるような、ちょっと良いモノをお持ちじゃないですか」
物腰は柔らかくても、物言いは図々しい盗っ人である。先の大戦が終わってしばらくたつというのに、巷にはまだこんな人間がうろついているとは娑婆の具合も金気次第。
ここで下手に吝嗇って刃物を出され、刺されでもしたらそれこそ一大事である。しかたなく私はコオトの前を開いて、下に着ている着物の袂、懐を探ってみた。
「ああ、あったあった、探せばあるもんだ。ほら、小銭があったからこれを遣ろう。なあに帰りの電車賃、おまけに熱燗の一杯もどこぞでつけて帰れるだろう」
そんな口上を付けながら、なけなしの銅貨を五枚ほど、抜け目なく差し出された若者の掌に落としてやる。
「へへ、旦那も話がわかるお方ですね。じゃあこれは有難く」
それで去ってくれればいいものを、若者は今度は私のコオトに目を付けた。
「旦那、お近くに家があるんでございましょう。コオトなんぞなくても冷え切る前にお家につくんじゃあありませんか」
「なんだね君は。この上、追剥ぎまでしようというのか」
流石に私は苛立って、コオトの襟を確り合わせ、いざここから走り去らんと身構えた。が、相手の場数が大いに勝り、気がつけば若者の荒れた手指がコオトの裾を掴んでいた。
「やめたまえ。離したまえ」
なんとか左右に体を振って若者の手を振り払おうとしてみたものの、これが地獄の蜘蛛の糸、まったくその手が離れる気配がない。
焦って腕までぶんぶん振り回し、ふと気がつけば電灯がぽっかり照らす照明の下、中年男と貧相な若者がぐるぐると同じ場所で回っている。
これはまったく喜劇の有様ではないだろうか。
と、いきなり若者の手がコオトから離れ、私は勢い余って尻もちをついた。これ幸いと手足を付いてその場から逃れようとしたところ、どうも若者の気配がおかしい。
先ほどまでの小者悪漢の様子が消えて、顔は蒼白、こわばった口元にこちらをなめた笑みはない。
もしや付近を警邏する巡査の影でもあったのかと、救われる思いで背後を見たが、特に真っ暗、何もない。
「あ、あ、あ……」
若者は何か口に出そうとしながら、舌が絡んで声を出せずにいるらしい。川魚が化けでもしたかと荒縄を引いてみたが、魚の面はさきほどまでと変わらない。
「な、ん、なんだァ、こりゃあ」
若者がぶるぶる震える指をさすのは我がコオト。はて、と怪訝に思って裾をつまんで持ち上げると、コオトの裾が枯葉になってバラバラと地面に舞い落ちた。
「おっと、これはいかん」
パンパン、と軽くはたくと枯葉はコオトに戻って消えた。
「ただの手妻だ、驚くな」
そう言いながら若者の肩に掛けた私の手は、毛むくじゃらの獣の手。
きゃあ、と一言、甲高い悲鳴を残して、若者は坂を転がり落ちるように走り去った。
電灯の丸い灯りの下に残された私は、これ以上は意味が無い、とコオトを元の枯葉に戻し、しまっておいたふさふさ自慢の尻尾を現わした。
そうして変化に使った立派な柿の葉一枚と荒縄に括られた川魚、まとめて咥えて坂道を上っていけばその坂の名前は狸穴坂。
登った先には我が住まい、江戸の昔より住み着いた武蔵野狸の立派な巣穴が主である私の帰りを待っていた。
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