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龍之介の孤独・1
お母さんは僕が7つのときに僕をこの屋敷に置いてどこかへ行った。
知らない男の人と一緒に馬車に乗って遠ざかっていくお母さんを泣きながら追いかけたけど、追いつける訳がなくて、転んだ僕はただただ大声で泣いていた。
僕を初めて見るお父さんの目はまるでゴミでも見るような軽蔑に満ちた目だった。
あの目を思い出す度に僕は自分の価値が世界中から否定されたような気持ちになり、それは永遠に忘れることが出来ない。
義母や異母兄たちにとっては異物の僕がうとましい存在でしかなく、松尾邸に来てすぐ、言葉も交わさずにこの離れの家に追いやられた。
1人での生活を始めてからどのくらい経ったのだろうか?
最初は誰も居なくて暗い家の中が怖くて淋しくてお母さんが恋しくて毎日泣いていた。
しかしどれだけ泣いても誰も助けてはくれず、これから永遠に1人だと覚ると同時に全ての気力を失った。
毎日布団に横になったままボーとして過ごした。くる日もくる日も生理現象でお腹が空いたりトイレに行きたくなったりしたときだけ重い身体を動かしたけど、それ以外はただひたすら『もしも』の世界を想像していた。
もしもお母さんが僕を愛してくれたら。
もしもお父さんが僕を気に入ってくれたら。
もしもお兄ちゃんたちが僕を受け入れてくれたら。
もしもの世界は現実と違って幸せだった。
お母さんは微笑みながら僕を抱きしめ、お父さんは僕に勉強を教えてくれる。そしてお兄ちゃんたちとは一緒に野球をして遊ぶんだ。
青空の下、みんなで笑って叫んで走ってボールを投げて。
昼になったら芝生の上でみんなで一緒に笑いながら握り飯を食べるんだ。
妄想の中なら僕は1人じゃなかった。
だから僕はずっと妄想をし続けていた。
いつしか僕はよく咳き込むようになった。
全身にかゆみを感じるようになり、そこは赤く腫れ上がり、姿見を見ると顔が僕の顔じゃなくなっていた。
まぶたも唇もほっぺたも腫れ上がって、まるでお化けのようだった。
悲しくなって、何とかしたくて、何度も顔を洗ったけど、酷くなる一方で僕は焦ったし絶望した。
そしてそんな僕の姿を見た女中達は皆化け物だと恐れて逃げていき、それを見る度に僕はいたたまれない気持ちになって消えてしまいたくなった。
やがてだるくなった身体のあちこちが痛くなって、息が苦しくなり始めた。
外からは僅かな木漏れ日が障子を突き抜け、2羽の鳥の鳴き声が響いている。
ああ、夜が明けたのか。
今日もまた、ただ苦しいだけの1日が始まる。
どれだけ妄想をしても身体の苦しみはどうすることも出来ない。
外からは草履が土を踏みしめる音が聞こえた。
女中が朝ご飯を届けに来たのだ。
「ねぇ、空気で病気感染ったりしないよね?」
「見た目も醜い上に結核だなんて怖いんだけど」
若い女の人たちの話し声が聞こえる。
そうか。僕、結核だったのか……。
「息を止めてさっと置いて帰るよ!?」
「うん!」
「せ――のっ」
こちらに駆け寄る2つの足音がしたかと思うと、縁側に土足のまま上がる音がし、障子が素早く空いて少量の麦飯が入った破り子を置くと素早く閉めて走り去って行った。
キャッキャと笑いながら「化け物見た!?」「気持ち悪かった!!」「結核感染ってたらどうしよう!!?」などという話し声が遠ざかっていく。
それらの言葉は冷たい釘となって僕の心の奥深くに突き刺さっていった。けれどもあまりに沢山の釘が刺さりすぎていてその痛みすら麻痺してしまっている。
僕は麦飯を食べるときに一緒に飲む水を井戸に汲みに行こうと布団から出ようとした。しかし身体に力が入らず、起き上がることすら出来ない。
咳が3度出たがそれだけで体力が奪われた。
意識が遠ざかっていく。
ああ、そうか。僕、死ぬんだ……。
ようやくこの苦しい世界を終えることが出来るんだ……。
僕が最後に見た夢は、お母さんとお父さんとお兄ちゃんたちで楽しく笑い合いながら美味しいお肉を食べる夢だった。
僕の目からは涙がこぼれ落ちていた。
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