1人が本棚に入れています
本棚に追加
新宿は苦手だ。迷路みたいで、いつも迷子になってしまうから。その日の夜は、職場の女の子たちと三人で、約束していたカラオケを楽しんだ帰りだった。
運悪く他のふたりとは、路線が別れてしまって、
「あ、樋口さん」
山手線に乗ろうと階段を昇っていた途中、ひそかに気になっていた職場の同僚とばったり出くわした。………他のふたりがいなくてよかった。ひとつ年下の彼だけど、転職した私からすると会社では先輩の立場の彼は、
「え、気色悪!」
――失礼な。
別に待ち伏せていたわけでもなんでもなく、唯の偶然。彼は彼で、新宿で担当していたシリーズの打ち上げがあった帰りらしい。山手線も同じ渋谷方面に乗るというから、ごく自然にいっしょに帰る流れになった。
「樋口さん、高田馬場だよね。どこ行くんです?」
「祐天寺の友だちんち」
「じゃあ、東横線もいっしょだ」
「ああ、横浜って言ってたっけ」
せっかく敬語で切りだしたのに、彼が砕けた口調で返してくれたからか、調子が狂う。仕事じゃないからって解釈して合ってるかなあ。
楽しく夜遊びするのは好きだし、悪酔いしない私でも終電近くの帰りの電車は苦手だったから、男の人といっしょってだけで、なんとなく足取りが軽くなった。ほっとしたからか。
気になっていた男性が相手なら、なおさらだ。あれは、運命だったんじゃないかなって。新宿みたいな、広いダンジョンでばったり会うなんて、まるで映画みたいだ。
最初は失礼な反応をしやがった彼も、だんだんと会社で仲良く仕事する時と同じような感じに接してくれる。ほんとうに他愛ない話をしていただけなんだろうけれど、仕事ではない状況で彼とふたりきりというのが初めてで、すごくうれしかったことを今でもはっきり覚えている。
きっと、私は大勢の中から彼を見つける天才なんだなって。
東横線も、夜も更けていけば最後は、各駅停車のみの運行になる。
『祐天寺~、祐天寺~』
車内アナウンスが、無情にも偶然の逢瀬に終焉を告げた。なんだろう、終電前の電車は、とにかく人で混み合っていて。だからか、自分でも信じられないことに、どさくさに紛れて彼の手を掴んでしまった。
「――――。」
つかまえておきながら、私はなにも言えず、(降りないの?)彼も私を見つめるだけでなにも聞かなかった。唯覚えているのは、彼が祐天寺で降りずに、つかまえた手を振り解かなかった。それが、事実だった。
自動扉が閉まって、祐天寺の駅ホームが遠ざかる。
なにを話したかは、覚えていない。たぶん、なにも話さなかった。なにを話せばいいのかがわからなくて、私から手を離したのだと思う。ごめんなさいも言えなかった。
「じゃあ、また」
唯そう言い置いて、彼は自由が丘で今度こそ降りて行った。それが始まりだった。
最初のコメントを投稿しよう!