第2話

1/1
前へ
/11ページ
次へ

第2話

 職場である白崎(しらさき)警察署はアパートから徒歩で通える距離だが、やはり遅刻は免れなかった。所属する刑事課強行犯一係の入っている刑事(デカ)部屋に辿り着いたのは八時四十五分を過ぎていた。  だからといって抱える案件によってはイレギュラーな時間となる職場、タイムカードなどないのだが、目敏く係長の石橋警部補に見つかってコートの背をどつかれる。 「飲み過ぎた挙げ句に重役出勤とは、偉くなったじゃねぇかい、高村巡査部長殿」 「すんません、ちょっとウチで事故が……」 「何だ、飲んだくれている間に空き巣にでも入られたか?」  その言葉でマユキは思いついた。もしかしてリョウは『居空き』ではないかと。  居空きとは住人が在宅しているのに入る空き巣のことだ。だが思い直す。平刑事の安アパートに入っても盗るモノなど何もない。せいぜいノートパソコンくらいだ。  それでも男として溜め込んだ多数の映像ライブラリには少し惜しさを感じたが、男を抱いたなどというのが嘘で、ノーパソ一台盗られる方がマシだという気もする。 「何だ、マユキ。妙なツラしやがって」 「あ、何でもないです」  とにかく酔って見知らぬ男と寝たなどとは吹聴できない。さりげなく石橋係長から離れるとキャビネット上で沸いていたコーヒーを紙コップに注ぎ、自分のデスクに着いた。  月に五百円徴収される代わりに飲み放題のコーヒーは泥水並みだが、濃い液体を啜り煙草を吸っているうちに現実感が戻ってくる。  デカ部屋には昨日の飲み会のお蔭で、パイプ椅子を連ねたベッドに幾つもの冷凍マグロが転がっていた。だからといって仕事をサボっている訳でもない。マユキを含めて刑事課員はこのデカ部屋で同報という事件の知らせが入るのを、ひたすら待つのが仕事なのだ。  強行犯係は殺しや強盗(タタキ)強姦(ツッコミ)といった凶悪事件を担当するセクションで、この白崎警察署に於いては三つの係に分かれ、それぞれ係の中で在署番を五日、自宅待機と非番を一日ずつ繰り返している。公平を期すため少しずつ曜日をずらしてはゆくが、つまりは週休二日のサラリーマンと殆ど変わらない。  だがそれも何事もなければの話であり、大事件が起これば何もかもが吹っ飛ぶ。県警本部の捜査一課が主体となって署に立てられる帳場、いわゆる捜査本部に組み込まれ、それこそ寝食を忘れさせられて昼夜関係なくホシを追うハメになるのだ。  昨日は十日追ってようやくホシも確保した街金強盗事件の裏取りも全て終わったために飲み会となったのだ。  丸二週間頑張った強行犯一係の人員も今日一日我慢すれば明日からは非番である。マユキも観に行きたい映画があるので、今日は何事も起こりませんようにと祈りながら、備品のノートパソコンを立ち上げて署内メールに目を通し始めた。  そこで昨日タクシー帰りした後輩の中山が隣の席に着地する。 「マユキ先輩、昨日はすんません」 「別に構やしねぇよ。それよりカミさんに怒られなかったか?」 「やー、機嫌が悪くて参ったっスよ」  などと言いながらポットを出してフタに液体を注いだ。匂いからしてシジミの味噌汁だとマユキは看破する。ちょっと羨ましく思っていると室内のスピーカが震えて声が流れ出した。 《指令部より各局へ。浅ヶ浦貯木場の倉庫街B‐3棟傍において男性の死体を発見との一般通報あり。関係各局は速やかに現場へ向かわれたし。繰り返す――》  マユキを含め、凍ったように身の動きを止めていた在署番全員が一斉に出口へと殺到した。署の裏の駐車場までダッシュし、ワンボックスカー二台に分乗して現場へと向かう。  都市部と閑静な住宅街を抱えた白崎警察署の管轄は海に臨んでいた。その海には貯木場があり、付近は巨大倉庫街となっている。そんな人の気配の薄い場所での死体発見とは、皆が嫌な予感に駆られているのが顔つきでありありと分かった。 「病死ならいいっスね」 「ああ。だが時間的に死体(オロク)ができたのは夜かも知れん」 「マユキ先輩の言葉は当たるんスから、変に予言しないで下さいよ」  夜間にあんな場所でなら何らかの諍いがあってもおかしくない。運転手を務める中山とやりとりしながらダッフルコートの内側、ベルトの上から巻いた帯革に着けた手錠ケースと特殊警棒に触れる。  刑事だからといって普段から銃など携帯していない。常時銃の携帯が義務付けられているのはテロなどの標的になりやすい制服警官か初動捜査専門の機動捜査隊か常に実戦の警備部警備課のSPくらいだ。  マユキたちに拳銃携帯許可が下りるのは余程の危険なマル被が徘徊していると判明している時くらいである。だがマユキが白崎署刑事課に異動して以来拳銃所持命令が出されたことはない。管内の治安はそこまで悪くなかった。  だからといって銃を撃ったことがない訳ではなく、年間に撃たなければならない弾数も決まっているので、最低でも一年に一度は射撃検定なるイヴェントがある。マユキの射撃の腕はそう悪くない。  それはともかく移動中のワンボックス内に無線で「射殺」などという不穏な言葉が飛び込んでくる。 「おい、聞いたか?」  石橋係長が助手席から振り返り、丁度目の合ったマユキは肩を竦めて見せた。 「あーあ、また帳場で出ずっぱりかよ」 「参ったな、ウチは来週、親戚の結婚式が――」  うんざりした空気が漂い、皆が口々に文句を垂れる。射殺が自殺でもなければこれでマユキたちはこの事件が解決するまで掛かりきりとなる。おまけに近場に住むマユキはさておき遠くに住まう所帯持ちの同輩は暫く署内に泊まり込みという悲惨さだ。  貯木場の倉庫街には十五分ほどで着いた。既に近所の駐在所から中年の制服警官が現着しており、死体の発見者らしき作業服の男と話し込んでいる。それを同じく倉庫作業員の野次馬が七、八名で取り囲んでいる状態だ。  まずはマユキたちと同時にパトカーで着いた警備部の人員がブルーシートで路上の死体を隠し、倉庫と倉庫の間にイエローテープを張り巡らせて野次馬を追い出した。     それからやっとマユキたちは死体を検分だ。 「くそう、オロクは眉間に一発かよ」  唸ったマユキに石橋係長も頷く。 「手慣れてませんか?」 「ああ。遺留品が空薬莢一個、四十五口径ACPとは大した得物じゃねぇかい」 「ヤクザの抗争っスかね?」 「さあな。ただミテクレ重視のヤクザには見えねぇけどな」  マユキの言葉に皆が頷く。死体はマユキとそう変わらない服装をしていた。ありふれたグレイのセーターにウールの黒いコートといった具合だ。  馴染みの鑑識班長にマユキが訊く。 「死亡推定時刻はどの辺りです?」 「そうですなあ、角膜の混濁と死斑の状態、硬直度合いから八時間前後ですかなあ」 「ってことは昨夜二時前後か」 「海際でこれだけ寒いですからなあ、司法解剖で多少前後するかも知れませんな」 「そうか。邪魔してすまん」  そこに次々と覆面が現着し機動捜査隊が、次にパトカーで捜一の先遣隊が現れた。所轄強行犯は見るべきを見たあと本部組に場所を譲り、今度は第一発見者や野次馬たちから聴取を開始する。 「出勤して、そのB‐3倉庫のフォークリフトを出そうとして見つけたんです――」  興奮気味に喋る作業員たちからは特にめぼしい事実は得られなかった。  鑑識が辺り一面にローラーを掛け始めるのを眺めて中山が訊いてくる。 「ホントに参ったなあ。帳場、立つっスよね?」 「ったり前だろ、なに甘いこと抜かして……ってカミさん腹がでかいんだっけか?」  頷いた中山の肩をマユキは叩いて労ってやる。その間も携帯で自宅に連絡を取る捜査員の姿が散見された。家族の協力なしにこの仕事は成り立たない。その点、マユキは気が楽だ。  まもなく専用車両に死体が載せられると皆でジャンケンをして大学病院での司法解剖に立ち会う二名を決める。上手くマユキは逃れて一旦、署に撤収だ。  デカ部屋に戻ると皆が泥水コーヒーで冷えた躰を温めた。マユキも泥水と煙草を味わう。  そのうち捜一の主任である警部補がやってきて、刑事課長の岩崎警部と石橋係長を交え話し込み始めた。このパターンでは明日イチで帳場が立つこと必至、その帳場で報告する材料集めとして強行犯一係主任の坂本先任巡査部長が仕切り、全員またも現場の臨海地に後戻りだ。  刑事は普通二人一組(ツーマンセル)で動く。それをバディシステムというが、マユキの相棒(バディ)はいなかった。足を骨折し入院中なのだ。そこで坂本巡査部長とバディの中山に加えられ、割り振られたエリアの聞き込みを開始した。  しかし辺りは倉庫ばかりで本当に人の気配がなく聞き込む対象を探すのすら一苦労で、一度昼食を摂りにファミレスに出た以外、粘り強く歩き続けたが何も収穫は得られなかった。  十七時半の定時をとっくに過ぎた十九時前になって署に撤収、あとは夜間の聞き込み部隊を編成したが、これも上手くマユキは免れ今晩は自宅に帰れることとなった。
/11ページ

最初のコメントを投稿しよう!

1人が本棚に入れています
本棚に追加