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 不可思議なことが起きた。朝起きると、私の腕は随分と華奢だった。それに、こんなパジャマを持っていただろうかと思う。七分袖から覗く私の腕は、真っ白で雪のように透き通っていた。顔に手を当ててみると、大分小さかった。両手で包み込めるほどかもしれなかった。急いでベッドから這い出ると、こほんと小さく一つ咳が出た。鏡の前に立ってみると——それはもう、彼女そのものであった! 一体どんなに望んだ夢だろうか。私は、彼女になったのだ! 彼女の言っていたことが、本当になった。妄想が、妄想でなくなったのだ! これが現実なのか夢なのか、といったようなことは、もはやどうでも良かった。今ここにある疑いようない事実、私が彼女であるということ、私はあっという間にそれを丸ごと受け入れてしまっていた。  彼女になって、初めての登校だ。私は意気揚々と着替えを済ませ、リビングに下りていった。そこには彼女の母親と父親がいた。当然の話だ。今私は彼女になって、彼女の家で暮らしているのだ。それから、妹がいるなんて知らなかった。妹は足を浮かせて椅子に座り、食パンを齧っていた。私は新聞を読む父の向かいの席に着いた。 「珍しいわね」と母親が言った。 「そっちの席座るなんて」  私はハッとした。いつもの彼女とは、違う行動をとってしまったのだ。 「随分目覚め良さそうじゃないか」と今度は父親が、新聞から目線を外して言った。 「良い心がけだ」と付け加える。  不自然に思われても構わない。中身が違うだなんて、誰も気づきっこない。そう思って私は、食パンに齧りついた。するとまた、妹が大層不審の目で見ているのに気がついた。無視をする。どう行動すれば自然かなんて、どうせ分かりっこないのである。とにかく、今日から私が、彼女として生きるのだ。  朝食を食べ終わると荷物を取って、高らかに「行ってきます」と宣言した。 「早いわね」と母親が飛んでくる。 「人が変わったみたい」  慣用句的に用いられるこの言葉に、私はどきりとした。実際、人が『代』わっているのである。——ふと、彼女の方はどうしているだろうと考えた。毎朝私が欠かさずにしている、あの妙な体操を家族の前でやらないと不自然だろうな。それから家を出た後、ベランダの前を通る時に一瞥して、お母さんに手を振るのを忘れるだろうな。お母さんは心配しないだろうか、いや案外気にもならないものなのだろう、そう思って満面の笑みで、母親を振り返って家を出てきた。母親はやはり、怪訝な顔つきをしていた。それほど、普段の彼女と今日の私の振る舞いとには、差があるのだろうか。  こうして普通に登校していると、途中自分が彼女であることを忘れそうになった。が、いつも顔を合わせれば名前を呼び合う友だちに素通りされ、妙な男子に「白濱、体育サボんなよ!」と通りすがりに揶揄われるとその度思い出す。そして時々訳も無いのに、こほんと息苦しい咳が出る。  学校に近づくにつれて、その症状は酷くなった。何だかおかしいなと思う間に咳はけほんけほんと立て続けに出て、校門まで後数メートルというところでいよいよ歩くのもままならなくなってきた。一体どうしたのだろう、と思って涙が出てきて、このまま死ぬのかもしれないと感じた。そこへ現れ「大丈夫?」と私の背に手を添えたのは——『私』であった。つまり今は『私』である……彼女? 「薬は?」 「わかん、な……」 「いつもリュックのポケットにも入れてるはず」と『私』の姿をした彼女は、私の背負うリュックサックを探って吸入薬を取り出した。そうして私に口を開かせて、噴射した。 「大きく息吸って」  ゼエ、と嫌な呼吸音がしたけれど、深呼吸を繰り返すうちにようやく段々と落ち着いてきた。 「ありがとう」 「ううん」  私は改めて彼女である『私』をまじまじと見つめることとなった。彼女の目から、私はこういう風に見えていたのだ。相変わらず、冴えない顔。私の、やっぱり好きじゃない顔……でもどこか、瞳の奥にキラキラしたものが感じられる。これは彼女が今『私』の中にいるからなのだろうか。それとも…… 「呼吸、苦しくなるの大変なんだね」  私が彼女の声でそう言うと、彼女はふっと鼻で笑って目を逸らして、「それ、いつものこと」と言った。  彼女は先に行って、校門をくぐった。 「行かないの?」  後ろから朝日が差し込むのも相まって、彼女の姿は、まるで私の身体から発せられるものとは思えないほど眩しかった。呆然としていた私は急いで立ち上がり、彼女についていった。  いつもとは左右逆の席に着く。逆の友だちに話しかけられる。ちっとも話題や『ノリ』についていけない。何だか、思っていたのと違う。確かに私の外形は彼女になったけれど、中身はずっと私のままだ。彼女の所作に趣味に言動に、私は近づきたかった。が、いざそれを求められると窮屈で、窮屈と感じないような生来の性格まで必要だった。足りない。私は彼女になったようで、彼女ではない。ちっとも、良くなんかない。朝とは真逆に、気分は沈んでいく。  ふと、彼女の方はどうだろうと見てみると——驚くべきことに、彼女は、屈託なく笑っていた。何人もの友人に囲まれて——普段私の周りには集まらないような級友にすら囲まれて、心底よりの笑顔を見せている。分かるのだ。彼女が、心に一点の曇りもなく笑っているのが。何よりそれが、自分の顔だから……。私は気分が悪くなって、トイレに駆け込んだ。個室にこもって、大した運動もしていないのに何故だか荒くなる呼吸を必死で抑えて、口に手を当てた。何か吐き出しそうになった。もうほとんど喉まで出かかったけれど何とか堪えて……すると今度はまた喘息が起こった。鎖骨の辺を押さえて苦しんで、涙を流した。彼女なら吸入薬を忘れることなんてないのだろうな、と思ってうるうると泣いた。  時間の経つにつれて、やっと咳がおさまった。外に誰もいないか、よく音を聞いて確かめて、鍵を開けて出た。鏡に向かうと、驚いた。もうそれは彼女の顔ではなかった! 良く似てはいるが、別人のものだ。そこに、私の憧れていた彼女はいなかった。そして、居場所ははっきりとしている。こんな悪夢があって良いだろうか。さっさと終わらせよう、そう思って私は教室に戻った。
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