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三
彼女また冷たくふっと鼻息を漏らして、私を嘲笑うだろうと思った。けれども案外すんなりと「そうしよう」と提案に乗ったのだった。もう皆が部活動を引き上げようという、夕刻の石畳での出来事である。
「もう疲れたあ。やっぱり、他人と入れ替わるってのは楽じゃないね」
「疲れた?」と私は聞いた。
「うん」と彼女は答える。
「本当に?」
「本当だよ」
彼女は『私』の顔で不思議そうにした。
私は未だ『私』の姿をとった彼女のことをどこかで私自身であると考えていた。しかし既に彼女こそが私であり、私は紛れもなく彼女なのである。それを理解した途端、急速に今目の前にいる『私』への親近感は失せ、赤の他人であるように思えた。すると途端に、私は『私』に対し、一定の尊重の念を抱くことができた。
「あんなに楽しそうに話してたじゃん」
「まあ、ね。でもどっと疲れが出たみたい」
そう言って彼女は額に手を当てた。彼女は、この一日の間に髪型すら変えていた。ずっとおろしていたのに、かきあげて額を出しているのだ。
「逆に、どうだった?」
問われて私は、ぎゅと唇を噛み締めた。
「体が入れ替わっただけじゃ、ちっとも白濱さんにはなれないから、もう良いよ」
彼女はふっと相好を崩し「そんなこったろうと思った」と言った。
「ちっとも良いことなんかないでしょ? 私なんて」
そんなことはなかった。今になってもできることなら、自分の身体など手放したままでいたいのである。けれども、何より私にとって苦痛なのは——そう、彼女が彼女でなくなることであって、良く良く考えてみると、自分が彼女になるよりも、彼女の側にいて彼女を眺めていることの方がよっぽど贅沢なのである。
「良いことだらけだよ!」と私は言った。彼女はちょっと目を見開いて、それからは特に何ともなかった。
「明日になったら、もう元に戻ってるから」
そう言うと彼女はすっくと立ち上がった。『元に戻ってる』とどうして断言できるのだろう? でも、彼女が戻ると言うのなら、きっと戻るのであろう。
彼女はさっさと立ち去ろうとする。私は、彼女に追いつこうとはせず、十分距離ができた後ゆっくり立ち上がった。もうグラウンドに聞こえる声もまばらになって、夕日は建物の陰へとっぷり浸かろうとしている。
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