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「よう。ひさしぶり、マキ」
その男は昔マキが一方的に熱をあげたことのある相手、恒夫だった。
今のように美翠のバーで知り合い、何度かアプローチしたものの、「もーち
ょっと大きくなったらなぁ……」と頭を撫でられて、うら若きマキの恋心は木
端微塵になったのだった。
当時の彼は、脂ののった働き盛りの四十路だった。ベンチャー企業を立ち上
げて一代で城を築こうと躍起だった十八年前からすると、今はギラギラした瞳
はなりをひそめ、落ち着いた男の色気をかもしだしていた。
恒夫の額は、より広く脂ぎって、生え際がうすくなり、体重の増加により皺
は引き延ばされていた。そして太い指には、高そうな黒曜石の指輪が二つ三
つ、ついていた。なんてセンスのない成金ファッション……
溜息がでる。
マキは押し寄せる悔しさに、肩ががっくりした。
男はいいよなぁ。年取っても、ダンディズムっていう世間に広く認知された
評価があるんだから。今風に言うとイケオジ。でも女はまるで、『少女』、
『若さ』が全盛期で、後に残るのは『母親』の価値だけみたい。もっとこう成
熟女性のかっこいい言葉作ろう。モダン・ガールとかさ……ガールじゃ駄目か
……モダン・ウーマン……? センスがなくて臍をかむ。
恒夫は勝手に相席に座って、勝手にウェイターに生ビール中ジョッキを注文
してから、マキに向き直った。
ふたりのテーブルには、会話の花が咲く。
久方ぶりの再会により、マキのやけぼっくいに火がついた。
「ツネオちゃん! 結婚して!」
酔った勢いでせまる。
成金社長のツネオは毎日仕事だから、妻には充分な時間と金が降り注いでく
る。専業主婦になるつもりはないけど、働く時間は今の半分くらいにして、残
りの時間自由に遊べる。短絡的にそう考えて、勢いで求婚した。
短絡的とはいえ、マキがツネオを好きなのは本当の気持ちだった。裏表のな
い性格が好きだし、容姿も好みに一致する。
「あっはははは、ひっひひひひひひひ……ふーっふっふっふぉ」
急に腹を抱えて笑い、恒夫は指をパチンと鳴らそうとこすったが、全然鳴ら
せていなかった。
音が鳴っていないのに、待ち構えていたように、一人の女がこちらにやって
きた。
ツネオの傍らに立ったのは、化粧の濃い若い女だった。ショート丈のワンピ
ースから伸びるムチムチの太腿に、自然と視線を釘づけにされる。と、ツネオ
の手が伸びて彼女の肩に手を置いた。
「わりーなぁ、マキ。ひとあし遅かったみたいだぜ。おれ、つい先週、えりぴ
ょんと婚約したわ」
「こ、婚約って……その人、若くない?」
「えりな二十歳、現役女子短大生、でえーすっ!」
えりぴょんは両手でピースサインを出してツネオの頬に突き立てた。長いネ
イルがツネオの頬肉に食い込んでいる……。「いてえ、いてえよバカ」「キャ
ッキャッ」
彼らは来春、えりぴょんの卒業を待って結婚するという。
その瞬間マキは静かに切れた。
「ねえ待って。あたしが大学生だったとき、アンタさ、若い子には興味ないよ
うなこと言ってたよね。もっと大人と会話したいとかいって……」
「そんときはそう思ってたけどな、人は変わる」
「ねーっ」
「ねーっ」
ツネオとえりぴょんは互いの腰に手を回し、イチャイチャし始める。
「残念だったなぁ。マキ。再会があと一ヶ月早ければ、おれと結婚できたかも
しれねえなぁ~」
「ぐっ、あんたらなにしにきたんだよ! はなれて。ここはあたしの、おひと
り様席なの!」
ツネオはよっこらしょと立ち上がる。えりぴょんを引き連れてテーブル席を
離れようとした。
「あたしだってねぇ、あたしだって本気出せば一週間、いや三日で結婚できる
んだからね!」
「よおぉ……たいした自信だな。よーしわかった」
「なにが?」
「三日以内に結婚できたら、百万円やるよ」
スーツの内ポケットから百万円の札束を取り出し、目の前にチラつかせて、
ツネオは昭和の映画で見たようなセリフを吐いた。
「よし」
マキは両腕をついて立ち上がり、勝負に乗った。
トートバッグから急いでルーズリーフを取り出し、ボールペンで誓約書を記
す。
ツネオのこの性格の悪さが、たまらないのだ。
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