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細い腕が今にもポキっと折れそうだ。
私の身体の脂肪という脂肪を分けてあげたい。
細いと言っても鷹松ではない。重い洗剤のケースを持ち上げながら品出しをしている姫永を、エミカは羨ましげに見つめていた。
姫永はエミカがこの職場で最も仲の良い従業員でもある。見た目は華奢で顔も美人な姫永は、本来なら女性として嫉妬の対象になり、一見仲良くできないタイプなのだが、年が同い年ということに加え、彼女が細い身体にも関わらず洗濯洗剤やティッシュ、飲料などの重いケースものを積極的に出すところにエミカは好感を持っていた。普通、彼女のような華奢で若い女子は、化粧品メンテナンスという優雅な仕事をしたがるものである。
さらに、姫永も鷹松からの長話によく付き合わされているということもあり、休憩が一緒のときなどはよく愚痴を言い合った。そういう意味では鷹松の度が過ぎるお喋りは、団結を深めるという意味で一役買う場面があるのである。
エミカはあたりを見渡し、近くに客も他の従業員もいないことを確認し、姫永に近づいた。
「姫永さん〜、今日も朝から店長に捕まりましたよ」
「え、またですか? 牛嶋さん、絶対店長のお気に入りですよ」
姫永は品出しの手は止めずに、笑いながら喋った。
「やめてくださいよ〜、そんなわけないじゃないですか。いや、あってたまるもんですか。店長はずっと姫永さん一筋ですよ」
二人の間で恒例の、鷹松のなすりつけ大会が始まった。意外なことに、姫永も現在彼氏がいないらしい。
「あと、店長にカバンの話はしちゃ駄目ですからね。超絶話が長くなるので」
「そうなんですか、朝からカバンのこだわり聞かされたんですね。でも、あれ? そういえば店長って、カバン持ってきてましたっけ? 持ってなかったような気がしますけど」
姫永が素っ頓狂な声で訊いてきた。元々高い彼女の声だが、今の「あれ?」と言う声はもはやモスキート音のように聴こえた。
「おっ、流石じゃないですか姫永さん! よく店長のカバン事情知ってますね? そうなんですよ、店長カバン持ってきてないんですよ。私、今日何かの拍子で訊いてしまったんです、姫永さんと違って店長のこと、全然知らないので」
エミカは冗談を言うような顔で言った。
「いやいや、そりゃあ見たくなくても、夜番で一緒のときは途中まで一緒に帰るので嫌でも知ってますよ。ほら、うち一人退店禁止じゃないですか。しかも電車の方向も一緒だから、いつも『ちょっと買い物してから帰ります』って言って、スーパー行くふりして先に帰ってもらうんですけどね。でもやっぱり、カバン持ってないのには何か理由があったんですね」
エミカは新人の女子に、嘘をついてでも一緒に帰りたくないと思われている鷹松に少しだけ同情した。だがスーパーに行くふりをして、先に帰ってもらう作戦は自分もよく使っている。鷹松も「どうしてうちの女子は勤務先の近くのスーパーでわざわざ買い物して帰るんだろう?」と疑問に思ったりしないのだろうか? いや、してないだろう。それが鷹松というポジティブと鈍感のハイブリッドを極めし男である。
「そうそう。あっ、ってことは、姫永さんはうちの他の男子がどんなカバン持ってきてるか、知ってるんですか? 男子っていうか、二人しかいないですけど」
「はい、だいたいイメージは沸きますけど、どうしたんですか、いきなりそんな従業員のカバンの話して?」
「いや、ちょっと男性のカバン事情に興味がありまして」
エミカは我ながら、なんて下手な言い訳だと思った。
「へー、そうなんですか」
姫永は全く信じていない、という表情だった。
「ちなみに、北口さんはどんなカバン使ってます?」
「北口さんは、本当に普通の茶色の肩掛けカバンですね。何を入れてるんだろう、っていうくらいの、肩掛けカバンにすれば大きめなところくらいしか特徴のない、まぁ普通のカバンですね」
「もしかして、そのカバンにキーホルダーとかついてた印象はないですよね?」
エミカは念のため訊いた。ひとまず、ついていてほしくはなかった。
「キーホルダーですか? はい、ないと思います。なんか小さなバッジはついていた気がしますが」
姫永は疑いながらも、真剣にエミカの質問に答えてくれた。
そして、北口のカバンに牛のキーホルダーがついていなかったことにエミカは安堵した。何かの間違いで彼が牛のキーホルダーをしていたら、法凜の言う運命の人は彼になってしまう。そもそもあちら側も、エミカが運命の人となることを求めてなんかいないだろうが。
「バッジなら、大丈夫です。ちなみに、才原くんのカバンにも何もついてないですよね?」
「たぶん、何もついてなかったかと思いますけど、でもなぜそんなことが気になるんですか? なんか、おかしいですよ。本当の詳しいことを教えてください」
姫永は、エミカが何か隠しているということを嗅ぎ取ったようだ。だが、エミカとしてもみすみす本当のことを言うわけにもいかない。
「いえいえ、何もついてないんだったらいいんですよ、何かほら、最近キーホルダーってつけてる人減ったじゃないですか? このままなくなっちゃうの嫌だなぁと思って。ほら、昔は携帯電話にストラップつけるのとか流行ったけど、今はつけてる人ほとんどいないじゃないですか、スマホの仕様もあるとは思いますが」
「そうなんですか……」
姫永はどうも納得いっていない表情だったが、途中でそれは焦る表情に変わった。
「君たち、キーホルダーについて話していたのかい?」
声のする背後を見ると、後ろに「待ってました」とばかりに、にやけた表情の鷹松がいた。エミカはギョッとして立ち尽くしていたが、その隙に姫永は「すいません」という顔をして、品出しに戻っていった。エミカも続いて逃げようと思ったが、時すでに遅しだった。
「牛嶋さん、ところで、キーホルダーっていうものが最初に生まれたのは日本でいうところの何時代か知っているかい?」
「えっ、あれ日本で生まれたんですか? そうですね、えーと。明治時代ですか?」
牛嶋はさっさとこの会話を終わらせようと、適当に答えた。
「明治時代ねぇ……」
「えっ、正解ですか?」
「うん、それが俺も知らないんだ。そもそも、どこの国で生まれたのかも含めて、色々考えてみようか。牛嶋さんは、なぜ明治時代だと思ったの?」
エミカは気が遠くなりそうだった。姫永はどこへ行ったのかとあたりを窺うと、嬉しそうに客に商品の案内をしていた。
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