2章

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 もうあと五分ほどで勤務時間が終わる。解放だ。疲労困憊で集中力も消失しかけているさなか、エミカは一人のガタイの良い男が視界に入った。その男は、買い物を済まして商品をリュックサックに詰めて出ていくところだった。  あれ? 今の人、もしかしてリュックサックに……  エミカの中で、一つの疑念が浮かび上がった。それは希望でもあった。  間違いない、目の錯覚ではないはずだ。  いつもなら、時間が来ればすぐに退勤を押せるように仕事を流しにかかるところだが、今日はそれどころではなかった。  近くに鷹松の姿があったので「ちょっとお客様に忘れ物届けてきます」と適当に嘘をついて、エミカは制服のエプロンを着たまま男を追いかけた。  近づくにつれ、やはり遠くから見えた男のリュックサックについているキーホルダーらしき物体が明らかになってきた。やはり動物だ。先ほど、動物のキーホルダーがついていた気がするのは気のせいではなかった。だが、その動物は茶色だった。息を切らしながら男の背後までようやく近づいた。もう一度をキーホルダーを確認する。  それはバッファローのキーホルダーだった。  一瞬、エミカは驚きも喜びもなく、無心になった。  バッファローって……牛?   自問自答した。いや、バッファローは牛に該当するはずだ。きっとこのたくましい男性が運命の人なのだ。  だが、エミカはようやく牛のキーホルダーを見つけた快挙を素直に喜べなかった。  いや待って。本当にバッファローって、牛なの?  またエミカは自分に問いかけていた。正確に言えばバッファローは牛のはずだ、それは間違いない。  だが普通、牛といえば「乳牛」を指すのではないか。その疑念を払い除けることはできなかった。  乳牛は豊満な白い身体に黒の模様が印象的で、角はあまり目立っていない温和な雰囲気だ。だが、バッファローは角が目立っているうえに、模様のない茶色や黒の引き締まった身体が印象的で、まさに闘うために生まれた牛といった雰囲気。イメージも全く違い、それは例えば乳牛は牛乳のパッケージに、バッファローはアメリカのバスケットボールチームのロゴに、それぞれ使われていたりすることからであろうか。そう、乳牛とバッファローは両方とも牛ではあるはずだが、まったく違う種族のようである。  では、どうすればいい? 近寄っていって「それって、牛のキーホルダーですか?」って聞いてみるか? いや、まずい。そもそもエミカは制服の緑のエプロンのまま来てしまっている。エプロンが赤色ではないので、近寄って闘牛のように興奮して突進してくる彼をマタドールのように避けることにはならないと思うが、話しかけるだけでも十分不審者にはちがいない。いや、そもそも彼が牛なのではない。彼のキーホルダーが牛なのだ。  エミカが模索しているうちに、その男は改札を抜けて、エミカが普段帰りに乗るホームとは反対側のほうへ行ってしまった。千載一遇のチャンスがどんどん離れていく。エミカはもうやけになり、ポケットから定期を出して改札内に入った。そして、悟られないように、また少し距離をあけてついていった。小走りの中、彼にどうやって声をかければいいか、他にいい取っ掛かりはないのか、頭を巡らせた。 「強そうな牛ですね」  だめだ。ぶっ飛ばされるかもしれない。体型的に、たぶんあの人はアメフトかラグビー部だ。タックルで、エミカがいつも帰宅時に乗っている向こうのホームまで跳ね飛ばされるかもしれない。  結局どうしようか思案した挙げ句、エミカは法凜のサロンの電話番号を発信した。バッファローが、はたして法凜の言う幸運の牛に該当するのか、訊くことにしたのである。 「はい。あなたに幸運と輝きを授ける、法凜です」  法凜はかしこまった声だった。 「もしもし、法凜さんですか? あの、私、昨日鑑定してもらった牛嶋です」  エミカはバッファローの男を視界の端にとらえるギリギリまで離れたところに行って、小声で話した。 「あぁ、牛嶋さん。どうしました?」  最初の流暢な声と違い、法凜は少し動揺した様子だった。 「あの、今回は予約とかではなくてですね、昨日おうかがいしたことで、急遽聞きたいことがあるんですけどよろしいですか?」 「……いいですよ、どうぞ」 「あのですね、牛のキーホルダーの男性が開運のキーパーソンだというように、教えていただいたじゃないですか? それで訊きたいんですけど、その牛は乳牛のことですか?」 「乳牛?」  法凜から素っ頓狂な声が聞こえた。たしかに普段私たちは、乳牛のことを乳牛とは言わない。基本的に乳牛のことは牛と言うのだ。 「あのー、正直言うと、バッファローのキーホルダーをつけている人は見つけたんですけど、やはりバッファローは牛に該当しないですよねぇ?」  エミカはまるで期限の切れた割引券を持って「この割引は使えないですよねぇ?」と店員に確かめるように、法凜に訊いた。だが、心では認めてくれ、と思っていた。 「バッファローですか?」 「はい」  エミカは食い気味に返事をした。 「バッファローって、あの、スペインの闘牛とかのバッファローですよね?」  わざわざわかっていそうなことを、法凜は確認する。 「あ、はい」  答えながら、エミカは気づいた。そうだ。バッファローは「闘牛」って言われているじゃないか。ということは、やはり牛だ。  だが、法凜の顔は芳しくなかった。 「うーん。残念ながらバッファローはちょっと今回の意味とは外れていますね」 「えっ、そうなんですか!」  小声で喋っていたが、ついにエミカは声を張り上げてしまった。周りにいた会社帰りの疲れたサラリーマンの何人かが振り向いた。 「そうですか……」  そう言われると、さらにエミカは残念な気持ちになってきた。 「はい、私が天からイメージを受けたのは乳牛のほうの牛なので。たしかにバッファローも牛ですけど、今回の開運イメージからは離れています。説明不足で、申し訳ございませんでした」 「いえいえ、とんでもないです。丁寧に教えていただき、ありがとうございました」  エミカが残念さを打ち消しながら、ちょうど電話を切った頃、電車がホームに到着した。  バッファローの男が乗る際、わずかにこちらを振り返った。目があった。その男のつぶらな瞳は、まるで乳牛のようであった。何かを訴えかえようとしているその瞳は、殺処分される前の食用の牛にも見えた。そこでエミカは、食用の牛のイメージを普段全く考えていないことに気づいた。  なぜ、私たちは普段、食用の茶色い牛のイラストやキャラクターを見ないのだろう。それは、食用の牛のイメージをあまりしないことによって、動物を食べているという罪悪感を拭おうとしているのかもしれないと思った。  順調に進んでいく電車とは裏腹に脱線したことを考えている途中、エミカは自分がまだ勤務中だということを思い出し、ゆっくりとまた改札に向かった。これから店に戻ることを考えると、気が遠くなった。
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