2章

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 「ポーリン、ちょっとマジ? それでバッファローのキーホルダー見つけて、勤務中なのに改札の中に突撃しちゃったの?」  鈴は運転しながら、エミカが先ほど説明した失態のことをわざとらしくオウム返しして、笑い出した。  やはり、鈴に車を出してもらうのは失敗だったろうか。いくら目的達成のためとはいえ、エミカは自分の精神衛生上の心配をした。鈴という女性は、相手の心情をあまり慮ることもなく土足で乗り上げるのが持ち味である。どちらかといえば横柄で、誰に対しても臆さない性格なので頼りになることもあるのだが、こちらが弱みを見せるとそこにつけ込んできたり、からかってくることも多いのが難点だった。  だが、かと言って、うら若き乙女が一人でバスに乗って、牧場まで行く道のりを想像すると、それはそれで気乗りしなかったのである。 「牛探しして、バッファロー見つけて突撃するって、エミカがバッファローみたいになってるじゃない。ほら、猪突猛進っていうでしょ」 「猪突猛進は猪だから」  あまりにからかってくるので、エミカは大人げなく訂正した。 「じゃあ鈴のほうはどうなのよ? 私と違ってさぞ戦略的に、例の駅舎に籠もって事務仕事ばかりしている背中が魅力的な男に近づく術を実行してるんでしょうね?」  さらに、エミカは大人げなく鈴の近況を追求した。 「あ、清森くんのことね。それがさぁ、残念づくしよ、無念の極地よ」  たしか以前は、清森「さん」と言っていた気がする。何か心境の変化でもあったのだろうか。エミカは続きを促した。 「それがさぁ、私だっていつまで立っても、横から後ろ姿を盗み見してるだけではだめだと思ってたのね。だから、行動に移したのよ。バカのふりして、『すいませぇん、どこどこ駅に行くにはどの電車に乗ったらいいですかぁ?』って言ってね。そしたら、少なくとも喋ることはできるでしょ。で、見事に清森くんはこっちを見て丁寧に教えてくれたの。やっぱり正面から見ても顔は結構タイプ。でもね、そのとき喋ってわかったんだけど、彼、声がすごい高いくせに、なんかボソボソ喋るのよ。そんな人いる? 声が高いならハキハキと喋らない? ボソボソ喋るなら、声低くない? 彼、どっちでもないのよ。なんか、そのアンバランスさと、女性慣れしてない雰囲気がまた端正な顔に合ってなくてさ〜。百年の恋と言うか、この三ヶ月の恋も冷めちゃったのよ」 「えー! それだけで、もうどうでもよくなったの?」  エミカは異性の好きな声など、気にしたことがなかった。 「そ。私、そんなことないと思ってたんだけど、結構声フェチだったんだなぁ、って今回思ったわ。背中フェチだけだと思ってたけど、次から気になる人がいたら、背中だけじゃなく喋ってるところも先に見ておかないとダメね」  別に告白もされてないのに、勝手に振ったような気分になっている鈴を見て、エミカはつくづく自分とは対照的だと思った。だから、長年付き合っているのだろうか。夫婦も似た者同士はうまくいかないとよく聞く。  年々、彼氏にする人への条件が増えていく鈴に対して、エミカは年々こだわりがなくなってきていた。そもそも、自分の見た目が相手に多くを求めていいレベルにないという自覚はある。仮に今、求めていることがあるとすれば、出逢いが運命的なことだ。だから、もし牧場で全然タイプではない人が牛のキーホルダーを身に着けていても、それはそれでエミカは恋に落ちるのだと思う。それこそ、モスキート音のような甲高くて聞き取りにくい声でしか喋れない人でも、後ろ姿が乳牛のように丸まっていても、食用の牛のような少しとぼけた顔をしていても、バッファローのような獰猛な性格であったとしても、それが運命の人だというのなら構わない。ただ、お喋りすぎる男は少し駄目だ。誰かを思い出してしまう。 「というわけで、私はまた振り出しというわけよ。はぁ。婚活アプリだったら、職業やら年齢、身長、年収まで何でも開示されてることが多いのに、どうして背中の様子と声はすぐにわからないのかしら。背中が骨張ってて、声が渋くて聞き取りやすい男性なんて、どうやって探したらいいのよ。あ、着いたみたいね」  鈴とのドライブは、いつもこうして鈴が独り言のように自分の境遇を嘆き始めると、突然目的地に到着することが多い。  宇田川牧場の入口には、エミカが今まで見たことがないほど大きな牛のモニュメントが飾られていた。原寸大よりもさらに大きく、腹部に大きな穴が空いていた。もしかして、あそこから顔を出して写真を撮ってくださいね、というはからいだろうか。だとしたら、なんてグロテスクな写真だろう。エミカはこの数日で、牛に愛着が沸くようになっていた。 「車停めたら、さっきの大きな牛のところで写真撮ろっか」  鈴が、にやけながら言った。
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