2章

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 気の抜けたような顔で、エミカは牛の穴の中から顔を出して鈴に写真を撮られた。心で「牛さんごめんね」と言うことで、なんとか自分を納得させた。  ところが牧場の入口で決して安くない入場券を払い、広大な敷地を見上げたところで、重大な自分の失策に気がついた。  それはまさに、さぁ、これから牛のキーホルダーをつけた男を探そうかというところだった。 「ねぇ、鈴。やばい。やっちゃったかも?」 「え、何が? 牛さんキーホルダー男探すんでしょ? 私も手伝うよ。もしかしたら、飼育員の中に、隠れ背骨ムキムキイケメンがいてるかもしれないから、ついでにそっちも探すけど」 「それが、私はそんなこと言ってる場合じゃなくなったのよ」 「どうしたのよ、ここで探せなかったら、もう埒が明かないんじゃないの?」 「それが、どうやって探したらいいのよ? 私、ここに来たら牛さん好きの人が多いから自然と見つかると思ってたけど、もう既に怪しいのよ」 「な、なんでよ。むしろここで見つからなかったら、もう他にあてはないくらいなんじゃないの?」 「だって、鈴、考えてもみてよ。まず、この牧場で働く飼育員の中で牛のキーホルダーを身に着けている人を探すとするでしょ。一見、牛とか動物好きの人が多いはずだから、確率としては結構高そうだけど、まずそれがほぼ無理なのよ」 「え、どうして?」  鈴は意味がわからないという顔をしている。 「だって、まず飼育員さんの仕事中の人、さっきから何人か見てるでしょ? どこにもキーホルダーなんて身に着けていないのよ。そりゃそうでしょうね、仕事中はリュックサックもしてないし、ましてやスマホや財布などの小物は見える場所にはない。つまり一番期待値が高かった飼育員さんだけど、彼らが牛のキーホルダーを持っていたとしても、それが何かについているところをこちらが見る術はないってわけ。あと、微かに期待できるのはお客さんだけど、もしここで牛のキーホルダーを買ったとして、その瞬間にはつけないでしよ? ミッキーマウスやミニーマウスの帽子を買ってすぐかぶるるわけじゃないんだから、牛のキーホルダーをつけるとすれば家に帰ってから袋を開けて、それからリュックサックとかにつけるわよね。つまり、お客さんの中で、牛のキーホルダーをつけてここに来ている人は、リピーターに限るってことよ。ここにそんなに多くのリピーターがいると思う?」  エミカは我ながら、この宇田川牧場に失礼な話だと思ったが、事実だと思うので仕方ない。牧場の敷地が広いというのもあると思うが、今日は土曜日だというのに、客で賑わっているという雰囲気ではなかった。ただ柵の中で、乳牛たちが逃げも隠れもせず、ずっと「うー」と声を出しながら牧草を食べている。  それを見てエミカは、幸せと退屈は紙一重なのかもしれないと思った。 「ポーリン。でも、まだ諦めるのは早いんじゃない? それら以外にもあるわよ。牛のキーホルダーを身に着けている人をあぶり出す方法」  鈴がいつもの得意げな表情で語りだした。 「え、何よ、その方法」 「さっきポーリン、最初に何言った? 飼育員さんたちがキーホルダーつけてるかわからない理由のところ」 「えーと、飼育員さんたちが勤務中だから、身に着けている物たちが見えない、って言ったかな」 「そうよ、そこよ! つまり『勤務中』だから、見えないのよ!」  鈴は突然、熱血塾講師のようにトーンを上げて語りだした。人口密度が低い分、誰かに聞かれる気がして恥ずかしい。エミカは少し声量を下げるように頼んだ。 「つまり……勤務中じゃないところを狙えばいいのよ。従業員だって、仕事着のまま帰るわけじゃないでしょ。さっき入場門の横に、明らかに従業員の事務所っぽい建物があったよね。おそらく従業員はあそこから帰りに着替えて帰るはずよ」 「ま、まさかそこで待ち伏せしようってこと?」 「そう。だって、全員が閉場まで勤務してるわけじゃないでしょ? きっと夕方くらいには勤務を終えて帰る人も出てくるはず。そのころに、あの事務所横で陰になっている木の下あたりで待ち伏せして、出てきた瞬間にあとを追ってカバンにキーホルダーをつけてないかチェックするのよ。で、もし牛さんがついてたら、私たちも急いで出て、その人が車に乗る前に声を掛ける。問題は何て声をかけるかだけど、『かわいいキーホルダーですね〜、どこで買ったんですか〜?』とかでいいんじゃない? そこからどうやって連絡先聞くかは難問だけど」  はたして望みはかなり少なそうだが、たしかにもう可能性はそれしかない気もした。  牛のキーホルダーを取り扱っている売店に訊いて教えてもらえるような、買っていった人の情報なんてたかが知れてる。それに「従業員で、これつけてる人はいますか?」って訊いても怪しまれるだけだろう。「います」って言われたところで、どうしようもない。仕方なくと言っては失礼だが、鈴の案を採用するしかないと思っていたそのときだった。  私たちが困っていると思ったのか、飼育員のような格好をした男性がこちらに近づいてきた。背は百七十五センチくらいで小顔で細身のマネキン体型。失礼な話だが、この牧場には似つかわしくない見た目で、作業着も似合っていなかった。 「あの、どちらから来られたんですか? 初めて来られましたよね? よかったら牧場の中ご案内しましょうか?」  彼のその目は確実にエミカのほうを向いていた。大きな瞳に、気さくだけど誠実さも感じる笑顔。胸ポケットには「襟元」と書かれた刺繍が入っていた。珍しい気がするが、それが名前なのだろう。  エミカが観察を続けていたせいで返事できないでいると、代わりに鈴が「はい、お願いします!」と、まるで喋るトライアングルのようなキーンという高い声を出した。その隙に、さっきから感じていた「予感」のようなものを探すことにした。  目線を青年の腰回りに向けると、上着の裾から牛のキーホルダーがわずかに見えていた。  そうか、キーホルダーがつくのは鍵や財布だけではなかったのか。  牛のキーホルダーは、その青年のベルトを通すズボンの輪っかにかけられて揺れていた。  それは紛れもなく、白と黒の乳牛だった。
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