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3章
「副業占い師」というネット記事に、法子の目はは釘付けになっていた。
そうか、占い師か……
法子は昔から占いが大好きだった。彼女は四十九歳になった今も変わらず、必ずテレビの「血液型占い」と「星座占い」で今日の運勢をチェックしてから律儀に出勤するのである。わざわざ二つ見るのはリスクヘッジである。法子は水瓶座のB型なのだが、例えば血液型占いでB型が最下位になる可能性はおよそ四分の一だ。もし、血液型によって偏りがないように配慮がされているとすると、少なくとも週に一回は最下位になる計算になる。法子にとって、その一回は耐えられないことだった。だが同時に、もう一つの星座占いのほうも最下位という可能性は限りなく低い。なぜなら星座は十二も種類あるからだ。つまり法子は、片方が最下位だったときに、もう一つの方で気持ちを持ち直すために、わざわざ二つ見てから出勤するのである。
だが、一度だけ水瓶座もB型も両方最下位だったことがあった。そのときの一言メッセージは「水たまりに注意」というものと「ラッキーカラーはピスタチオグリーン」というものだった。
なんとか気を取り直して駅まで向かおうとしたが、玄関を出てすぐ目の前の道路に大きな水たまりがあった。不吉な予感がした。そこで、すぐさま部屋に戻りクローゼットからピスタチオグリーンなる色の洋服を探したが、法子はピスタチオグリーンがどういったグリーンなのか見当がつかなかった。だが少なくとも自分はピスタチオグリーンの洋服を持っていないことは明らかだった。そういうこともあり、その日、法子は会社を欠勤した。今日は行くべきではない、と思ったのである。
当日に熱が出たという言い訳は嘘と思われるかもしれないが、構わなかった。それくらい、法子は占いに人生を左右されていたのである。
二十代のころは、プロの占星術や風水の占い師のところへ足繁く通い、言われた通りに行動した。それまで都内の一等地にある実家で、両親と特に何の問題もなく、むしろ裕福な暮らしをしていたが、気づけば地方にある各駅停車しか止まらない最寄り駅から、徒歩で十八分のところに一人暮らしをし始めた。
その原因となった占い師曰く「あなたは親にエネルギーを吸い取られている」とのことだった。
法子が両親に反対されながらも一人暮らしを始めて、数年が経ったころ、法子の父親は持病が悪化して死んだ。父親が死んで悲しいはずなのに、法子の頭の中にずっとあったのは「やっぱり私はエネルギーを吸い取られていたんだ、だから私がいなくなってエネルギーの供給がなくなって病気が悪化したんだ」というものだった。
部屋の模様替えも、占い師の指示でふた月に一回ほどのペースで大々的におこない、その度にお金を工面しなければなかった。そのため、すぐに貯金は底をつき、その度に実家の母親にお金をせびるために帰った。父親の遺産がある程度は入ってきていることは明らかだったので、あまり気兼ねはしなかった。
周りの友人は大学から一人暮らしを始める子が多い中、自分は社会人になって数年経つまで親と一緒に暮らしてあげていた、すなわちエネルギーを与えていた、という貸しがあると思っていた。だから、二ヶ月に一回、五十万円ほどのお金を分けてもらうことなど、まだお釣りがくるほどの貢献を、法子はしてきたという自負もあった。
だが、父親が死んで数年後、母親も死んでしまった。原因は不明と、医師に説明を受けた。ただ、法子が会いに行くたびに母親は痩せていっている気がしていた。きっと、母親も何かの病魔に襲われていたのだろう。母親は面倒くさがりの性格だから、不調があっても病院に行っていなかったのではないか。
母親が死んだとき、なぜか父親が死んだときのようなショックを、法子は受けなかった。きっと、占いが心を強く成長させてくれたのだろう、と法子は思った。だが、父親の遺産を受け取っているはずの母親の遺産がほとんどなくなっていたことに、法子は驚愕し、わずかに怒りの感情が湧いた。
なぜ可愛い娘が一人暮らしをしているのに、何も残していかなかったのだ。頼るお金がなくなったことで、初めて法子はこの地球に一人取り残されたのだという孤独感を感じた。
大学生のころまでは、両親の他にもよく友人に囲まれていた。男にも言い寄られることがあったが、なぜか法子に寄ってくるのは変な男が多く、誰とも付き合うということはしなかった。
法子は異性よりも同性に人気があると思っていた。例えば両親が生きていたころ、法子が主催でパーティーをすると言えば、たちまち学部中の女子が自宅に来た。もちろんせっかく来てくれたので、お代は一切いただかなかったが、女子たちは皆、主催の法子に感謝を述べに来た。思えば、あのときが一番両親がいきいきとしていた気がする。「法子は本当に慕われてるわねぇ」と母はよく嬉しそうに口を開いたし、料理人の経験がある父は高級食材を買い集めて、腕によりをかけた料理を振る舞っていた。多くのカップルが、法子のパーティーがきっかけで誕生し、法子はよく結婚式にも招待された。新郎新婦、両方とも直接の知り合いではないカップルの結婚式にも、喜んでかけつけた。誰かの幸せのきっかけに、自分がなるということの喜びはこのころ知ったのである。
だが、社会人になると、それまでの順風満帆だった毎日が嘘のように、心の帆が乱れた。最初に就職したそこそこ有名な銀行では、上司のパワハラに悩まされ一年も経たずに辞めた。
さらに転職先の金融会社の事務職や、歯科助手をしていた職場では同僚にいじめられた。その頃は法子の父が死に、また母が後を追ったころだったので、気持ちが乱れて次第に占いにはまっていくことになるが、すぐに貯金は底をつき、次第に借金も膨れ上がっていき、占いから手を引くしかなくなってしまった。
だが、実はそれは建前の一つかもしれない、というのも、ある日突然法子が好意にしていた占星術と風水の占い師両方ともと連絡がとれなくなり、店に行ってももぬけの殻になっていたのである。他の先生に見てもらうのは気が進まなかったので、占いというものに必然的に距離を置くようになってしまった。あの二人の失踪がなければ、今も法子の借金はさらに膨らむ一方だったかもしれない。
そして、そのころから約二十年の月日が経った。現在仕事では、病院の医療事務をし始めて十五年が経過し、もはやベテランの域に達しており、法子は周りから頼りにされる存在だった。
そして何より「法子さんは仕事ができる」と言われるのが快感だった。頼りにされるというものは悪い気がしないので、「保育園の行事で〜」とか「子供が熱を出して〜」とかの理由でシフトの相談をされるとつい、しんどくても請け負ってしまっていた。
安定した収入や、そのような不定期の残業代に加えて、法子はずっとパートナーも子供もいないため、金銭的にも余裕が増え、一人暮らしのころには食べれなかった高価な料理にも舌鼓を打った。そんな料理を口にしていると、ふと実家にいたときに家族で机を囲んで食事をしたことを思い出した。その度に、法子は「結婚したい」と思うようになった。
周りには若い男性事務員も、さらには医者もいるが、仕事のできる先輩ということもあってか、皆、気を遣って法子に業務以外のことを喋りかけてこないと考えていた。
たまにプライベートなことを話しかけてくる同僚もいるが、もっぱら同世代の同性だ。そんな折に、同僚に誘われ、久しぶりに占いに行った。そこは、それまでは行ったことのなかった、恋愛運の占い師だった。
まさに今、自分が求めていることと合致するではないかと思い、胸を高鳴らせて行ったが、そこで法子は「何かが違う」という思いに駆られた。それは、もう自分は占ってもらう側の人間ではないのではないか、という思いであった。人生経験を積み重ね、過去を乗り越え、自分に自信もついた私が、どうして人に指図を乞わないといけないのか、という思いになったのである。
そのころからであろう。自分こそが占い師になるべきではないか、という思いが心の中でヒシヒシと強くなっていったのは。
そしてこの「副業占い師」という選択をする人が増えているという記事を見て、法子は現職を辞めずに占い師になることを決意した。それは五十歳を直前に控えた人生への焦りのようなものもあったのかもしれない。医療事務の仕事に飽きてきたというのもあったのかもしれない。しかし、それも含めて「運命」ではないか、と法子は考えていた。
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