1章

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 エミカは家に帰ると、三着だけ掛けられる壁掛けハンガーに、着ていたメロン柄ワンピースをそっと掛けた。それは定年まで働きつめた職人が引退し、長年連れ添った仕事着をいたわるような仕草だった。  昨日までは、いやほんの数分前までは、あんなに憎かったこの服が、そしてあの占い師が、今は愛しくも思える。もはや、感謝の気持ちでいっぱいであった。そもそも昨日までは、この部屋のオブジェ的な役割も果たすこの場所に、メロン柄ワンピースを掛けることなど、考えられなかった。誰が来るわけでもないが、ずっと部屋の隅に追いやっていたのだ。  エミカは、ジャージ代わりにしている高校時代の体操着に着替え、鏡を見た。さっきまでとは別人のようである。もちろんどちらが良くて、どちらが悪いとかではなく、我ながら両方とも見れたものではないと思った。  昔はブカブカだったこのピンクのジャージも、いつしか窮屈さを感じるようになっていた。さらに鮮やかだったピンク色も経年で色落ちしてしまい、まるで人と豚が結合したような姿である。  エミカは自分の体重が増えるにつれて、自己嫌悪も増していった気がしていた。それに比例するかのように、化粧ポーチははち切れんばかりに膨らみ、冷蔵庫の中には期限切れの惣菜が場を占めた。本棚の隅では、自己啓発本や流行りのダイエット本が何冊か埃を被っており、それらに対してなんともいえない共鳴を感じていた。  昔、実家にいたころは家族に「エミちゃん」か「エミ」と言われ、同級生には「エミリン」や「エミエミ」などと言われていた。  だが、大学を卒業して社会人になると、エミカは下の名前で呼ばれることはほぼなくなった。あまり呼ばれたくない名字のほうが、顔を出し始めたのである。それからは「牛嶋さん」とか「牛嶋」と呼ばれることばかりだった。それは、自分が牛の体型に近づいていることとは関係ないのはわかってはいるが、なぜかその名字で呼ばれるたびに、不安を煽られているような気分だった。豚なのか、牛なのか、どちらにしても嬉しいものではない。  早く結婚したい。結婚して、名字をリニューアルしたい。「牛嶋」は男のための名字だ、とわけの分からない理屈を並べ立て、生まれ変わるために婚活をしようと一年ほどは奮闘した。そこで初めて男性と付き合った。エミカが二十三歳になった冬だった。エミカは初めて男性の身体で暖を取った。恋のウールが彼女たちを覆った。だがそのウールは冬限定のものであるかのように、季節が変わると弾けとんだ。エミカは突然、別れを言い渡された。まるで、冬を乗り切るためのファンヒーターのような扱いにひどく落ち込んだ。いや、ファンヒーターならまだいい。私は使い捨てカイロのような存在だ、と思った。  自分を振った男に復讐を誓うほどの生気もなく、自分を卑下して二年を過ごした。卑下すればするほどに間食は増え、鏡も埃を被っていくようだった。  その成れの果てがこの体型か、とエミカは思った。だが今は、昨日までの自分とは違うとも思った。それはこの姿を直視できたからである。昨日までは、自分の姿なんて見ようとも思わなかった。臭いものに蓋をするように、太い自分の姿に蓋をしていたのだ。それがこの六日間は、良くも悪くも自分の姿を見た。たとえそれが、メロン柄のワンピースが奇妙に映っていないか確認するためだったとはいえ。  その姿は、奇妙だった。今まで見たことのない自分の姿。だがその確認作業は、この二年間で全くしていなかったことであり、今、エミカは世間から見た自分の現在地がようやくわかったのである。それは、受験生が全国模試で自分の現在地を理解させられることでの功罪と同様に、少し痩せることや、綺麗になることにやる気が出たようだった。  それに、あんなに家から近い場所で働いているのに、遠い存在だった憧れの皆原くんと喋ることができた。それもこれも、この服を着ていたおかげである。エミカは、この部屋で唯一、輝かしい色を放っているメロン柄ワンピースを見上げた。 「オルビスタウン」  そう言ったきりで最後無視されたことも含め、先ほどの皆原くんとのことを思い出すと、胸が張り裂けそうなくらい恥ずかしくなるが、彼と話すことができた喜びはそれを補って余りあることだった。  もしかすると、今後も買い物に行くたび、皆原と喋ることができるかもしれない。無機質だったスーパーでの買い物が、これからは期待と希望に満ち溢れたアミューズメントパークのように感じることができるかもしれない。  エミカは「今日は皆原くん来てるかな」「二日連続いないから、明日はきっといるはずね」「今日の皆原くんは、寝癖がついていてキュンとした」などと、いてもいなくても、退屈な日々にささやかな彩りが加わる期待感で溢れていた。結果、まだ晩御飯も食べていないのに、既に食欲が満たされた気がしていた。  スマホを見ると、ランプが緑色に光っていた。中を見ると、友人の三上鈴からラインがきていた。 『ポーリン! 占い行ったんでしょ? どうだったの? 私も進展しそうにないから、もし良かったんだったら紹介してよ〜』  冒頭の「ポーリン」という敬称はエミカのことだった。現在エミカをあだ名で呼ぶ人はあまりいないが、鈴は中学時代から変わらず、そのあだ名でエミカを呼び続けた。大人になってから呼ぶと違和感しかないあだ名も、当人にとってはそれを変えるほうが違和感があるらしい。  なぜそんなあだ名になったのか、はっきりとしたことはエミカも覚えていないが、たしか鈴が「三上鈴」の「鈴」の部分を正しい読み方の「すず」ではなく「りん」と読んで「カミリン」と呼ばれだしたのが始まりだった記憶があった。カミリンに呼応するかたちで、エミカのほうは名字は使わずに名前だけで「エミリン」と呼ばれるようになった。そしていつしか鈴だけがエミカのことを「ポーリン」と呼ぶようになった。  なぜ「ポー」という耳馴染みのあまりない二文字がくっついて、代わりに肝心要の「エミ」を押し出したのか? 確固たることは記憶にないが、日本史で出てきた「ポーツマス条約」という解答を、先生に当てられてエミカが答えたときに「ポー」の発音が変だったことから「ポーリン」となったのが起因らしい。それによりエミカは当時、ポーツマス条約という内容もよくわかっていない条約を恨んだ。厳密に言えば、その条約名をつけたどこぞのお偉いさんを恨んだ。  そんな愛があるのかないのか、よくわからないあだ名をつけられてもエミカと鈴の仲は続いていた。エミカにとって、恋愛話を赤裸々にできるのが鈴だけしかいないということもあるのかもしれない。だが、いつしかエミカは鈴のことをカミリンとは呼ばなくなっていた。  エミカは鈴への返信で、あの占い師に言われたことと、最初は疑っていたが開運ナンバーを信じて継続しただけで、今までの人生では起こり得なかった出逢いが生まれたことを、先ほどまでの興奮そのままに伝えた。  よくよく思えば、鈴がエミカに「ポーリン」というあだ名をつけてくれたおかげで、あの占い師と出会えたのである。当時はいい迷惑だと思っていたが、今は感謝に変わった。  あの占い師に出会えたことも幸運だった。今はインターネットの時代だ。昔のように、街の暗い片隅でひっそりと佇む占い師に、勇気を出して声をかける必要もない。
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