2章

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 いくら時間をかけて最寄り駅まで歩こうと、いつかは着いてしまうものだ。動物としての体内時計があるのか、家をいつもより二十分ほど早く出たのに、結局いつもの通勤時間と同じ電車にエミカは乗っていた。  電車は慌てようが慌てまいが、変わらないスピードで目的地に着く。急行で二駅しか離れていない職場の最寄り駅に着くと、今度は通常の速度で歩き始めた。ゆっくり歩いて、待ちゆく人の背中を観察しているところを職場の誰かに見られでもしたら、何を言われるかわかったもんじゃない。特に店長の鷹松に。  五分ほど歩くと、真緑の奇妙な看板が見えた。グリーンドラッグスと書いてある。そこが、エミカがパートとして勤めている職場だった。その、まばゆいばかりの真緑が一瞬メロンを想起させて胸がたじろいだが、メロンはどちらかといえば黄緑だったことに気づき胸をなでおろす。  店舗の軒下から燕の姿が覗いた。いつの間にか巣を作って居座っているのである。田舎とも都会とも言えないこの地域は燕にとって居心地は良いのかもしれない。もしくはグリーンドラックスのイメージカラーである緑色が落ち着くのか。  このグリーンドラッグスの緑色は安心感を与えるためや、自然派商品を推進していますということを表現するためというよりは、ただただ着色料の緑、昔のかき氷のメロンシロップのようなはっきりとした濃い緑をしていた。おかげで数メートル離れていても存在感のある建物だった。まるで、この店の主である店長の鷹松のようだ。  そのエミカの上司にあたる鷹松という男は独身らしく、実際の年齢は知らないが、三十代前半男性の平均値のような見た目をしていた。だがよく見ると体型は細身で、何より中身は全く平均ではなかった。  彼はエミカが入社したあと、別の店から異動してきたのだが、初対面でいきなり手を差し伸べながら「どうも〜鷹松です。独身なんで、いい女性がいたら教えてください。あ、僕は先月離婚したばかりのバツイチで煙草も吸うので、それでもよければよろしくどうぞ」と言い放ってくるような、エミカにとっては軽薄以外の何物でもない印象だった。  さらに、そんな感じだから離婚されたんだろうと内心思っていると、訊いてもいないのに「俺から離婚してって頼んだんだよ」と伝えてくるプロフィール垂れ流し男で、他にも訊いてもいないのに「今年の抱負」「無人島に何か一つだけ持っていくなら」「昨日の夢」など、どうでも良いことを次々と教えてきた。エミカは、これはいったい何ハラスメントに該当するのだろうと思っていた。業務上、パワハラをしてくるとかはないのだが、ずばり、エミカの苦手なタイプだった。  だからそんな鷹松に、牛のキーホルダー男を探すために、目を凝らしてゆっくりと歩いていることがバレでもしたら、誰に何を言いふらされるかわかったものじゃない。  だが、エミカは一つ嫌な疑問を抱いた。  もし鷹松が牛のキーホルダーをしていたら?  ふと、そう思ってしまった。たしかに変わり者の彼なら「俺、寅年だから丑のキーホルダーしてるんだよ」とか言いかねないと思った。それでもし「なぜ寅年なのに虎のキーホルダーじゃないんですか?」とでも訊いた日には「ほら、俺ポジティブじゃん、前向きじゃん。だから十二支の中でも自分より前を走ってる動物を目標にしてるんだよ、だから虎より先にゴールした牛のキーホルダー。まぁ猪突猛進という意味で、猪のキーホルダーでも良かったんだけどね」と、訳のわかるようでわからない講釈を垂れるところが容易に想像できてしまった。  待てよ。  もし、鷹松が本当に牛のキーホルダーを身に着けていたら簡単に話題に出すことができる。もちろん、鷹松が運命の人になってほしいというわけではない。つまり、知り合いの人が身に着けていれば、そもそもそれを話題に出さなくとも話をすることはできるのだから、その人との関係を徐々に深めていけるではないか。なにせ、あの法凜からのメッセージなのだ、間違いなく関係は縮まるはずだ。  だがよくよく考えれば、ただでさえ牛のキーホルダーを持っている人が少ないのに、そんなにうまく知り合いが持っているわけがない。さらに残念なことに、現在エミカの異性の知り合いと呼べる存在を思い浮かべてみたところ、職場の人くらいしかいないことに気づいてしまった。こんなに無念なことはない。  鷹松の他にいる二人を、一応思い浮かべてみることにする。  まず、社員の北口はエミカより少し年上だが、根暗っぽくて何を考えているかわからない。ある種、鷹松とはまた違った気持ち悪さがある。これがイケメンだったら、ミステリアスとかになるんだから、世間の目というかエミカの目は冷たい。北口のリュックサックなど、まじまじと見たことはないし、そもそもどんなカバンかも記憶にないが、おそらくつけているとすればアニメのキャラクターとかではないだろうか。まず、牛はない。絶対ない。  そして、夜のアルバイトの才原。何の分野なのかわからないが、四年生の大学を卒業後も院生として学生生活の延長に成功した彼は、エミカと同年代のはずだった。職場の中で唯一といっていいほどのイケメンなのだが、少しナルシストっぽいところと、冷たいところが好きではない。だが、彼はよく大学の後輩などからは「ツンデレ」といって彼を持ち上げられているらしい。本当に北口にとっては、つらい世界になってきたものだ。おそらく、二人が職場で全く同じ対応をしても、客の反応も全然違うだろう。  残念ながら、エミカの職場の男性といえる存在はその三人だけだった。職場に恋愛を求めていないとはいえ、これでは先が思いやられる。  エミカは普通の速度で歩きながらも、名残惜しそうに周りを見ながら職場へと向かった。
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