~愛衣編~

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~愛衣編~

伊月くんは 何でもすぐ分かっちゃう人で わたしの不完全な部分を支えてくれる人で 泣いても優しく受け止めてくれる人で でも同時に わたしの心を 酷く傷付ける残酷な人だった 年の離れた妹と弟が二人いる。 妹はわたしが大学生になる頃無事第一志望の難関中学に合格したが、身体的な障がいを持って生まれた弟と、事故をきっかけに脳機能に障がいを負った父親の世話を母親一人にさせられないため、わたしは地元の大学を選ぶことを決めた。 わたしは家から通える大学で勉強し、部活をし、バイトをし、家へ帰れば家族の手伝いをする。 思えば昔からしっかり者だと言われていた。 「愛衣はすごいよね、何でも同時にできちゃうんだもん。昨日もバイト入れてたくせにテスト一位だもんね」 大学でできた友達グループの一人にそう言われ、苦笑いを返したこともある。たまたまだよ、と言うには偶然が何度も起こりすぎている。わたしは勉強はできる方だし、努力する方だ。 部活も勉強もきっちり両立しているわたしの姿を見て、元部長が私を次の部長にすることを提案した。正直忙しくて多少無理をしないとこなせないくらいの役割だったけど、この軽音サークルが好きだし、お世話になった部長がわたしを選んでくれたのだからと断れなかった。 伊月くんと仲良くなったのは、そんな風に部長になるかならないかのギリギリの頃。 お互い二年生になりたてで、新年度初のバンドを一緒に組んだのがきっかけだった。 部会の後のご飯食べにあまり参加しない伊月くんのことは同じサークルながらそれまでよく知らなくて、このサークル内でベースが一番うまい人っていうただそれだけの印象だった。 新年度初のライブは新入生歓迎ライブといって、新入生が演奏したいと言った曲に先輩が付き合う形になっている。 ドラムパートの新入生がその時期一番流行っていた五人バンドの曲がやりたいというので、その練習をしたりバンドメンバーで食事に行ったりした。 新歓は得意なので新入生とはすぐに仲良くなれたし、そのバンドで初めて絡んだサークルメンバーともすぐ打ち解けたが、伊月くんだけは掴みどころがなかった。 話しかけてもゆるい笑顔を浮かべて当たり障りのないことを答えてくるだけで、何一つ本音を言ってこないような印象を受けた。 多分わたしのことが嫌いなんだろうな、とも感じた。わたしというより、わたしみたいなタイプが苦手なんだろうなって。 初めてちゃんと二人で話したのは、バンドの練習後、二人でライブイベント用のセトリを書くために部室に残った時だったと思う。 あまり好かれていないことは薄々感じていたので正直気まずかったが、配置をシートに書き込んでいる時、ふと話しかけてきたのは伊月くんの方だった。 「愛衣ちゃんって」 下の名前にちゃん付けしてきたのに少し驚いたのを覚えている。この人わたしの名前覚えてたんだって思った。同じバンドで何度も練習しているから当然のことなのに。 「一人暮らしだっけ?」 質問の意図が読めず書く手を止めて伊月くんを見た。 「実家だよ?」 「洗い物よくする?」 「うん。どうして?」 「手、ちょっと荒れてるなって」 恥ずかしくて思わず手を引っ込める。しかし、伊月くんの手が伸びてきて、わたしの指先を掴んだ。 「実家なのにちゃんと家事してるんだ。えらいね」 近い距離感でゆるりと笑われると、いつも見ている笑顔のはずなのに色っぽく思えた。 そういえば新入生が伊月くんを見てキャーキャー言ってたなと思い出し、何となくまじまじと伊月くんの顔を見つめてしまった。 そういう目で見たことはなかったけれど、たしかに、整った顔をしていると思う。モデルやアイドルにいてもおかしくないくらいの。これでベースもできるのだから、そりゃあモテる。 「見すぎじゃない?」 伊月くんの声にハッとしてセトリに向き直った。伊月くんが音もなく笑う気配がした。 「面白いね。愛衣ちゃん」 伊月くんはこの頃から人を惹き付ける不思議な雰囲気を持っていた。何考えてるのか分からなくて捉えどころのないところとか、簡単に触れてくるところとか、誰も気付かないような細かいところに気付いてくれるところとか。これまで会ってきた誰とも違う、こちらの中にじわじわと侵食してくるような魅力があった。 その日から、伊月くんからはたまに連絡が来るようになった。 おすすめの楽曲のURLに一言【おすすめ】と書いてあるだけのメッセージ。 と言っても頻度はそんなに高くなかったし、わたしが返信しても既読無視してきた。 意味分からないけれど、ひょっとしたら少しわたしに気を許してくれたのかななんて期待させる行動だった。 懐かない猫が少し靡いてくれたような手応えがあった。 あまり他のサークルメンバーと馴れ合わない伊月くんだったから、こんな風に他のメンバーとも話すようになればいいのになって思っていた。 サークル内に友達はいるみたいだったけど、ほとんど伊月くんに対して目をハートにさせている女子たちだったから。 新入生歓迎ライブが終わった後の打ち上げを最後に、伊月くんとの接点はなくなった。 おすすめ楽曲のメッセージだけは、一ヶ月に一度ほど来ていた。 そのまま変わらない日々が続き夏が来る。 父親の状態が悪化し、母親は毎日泣くようになり、わたしは母親や妹弟のメンタルケアや福祉センターへの相談で手一杯になった。 期末試験やバンド練習、不安定な母親の代わりにバイトのシフトを増やしているうちに時間が過ぎ去り、わたしは肝心なことを忘れていたのだ。 関東地方の他大学と合同で毎年行われる大きなライブイベントの予約だ。 いや、存在は覚えていたのだが、気付いたら締め切り当日の夜だった。 バンド練習の後部室で一人残って慌ててパソコンを開き、エントリー画面を表示する。ここまでは焦っていなかった。うちのサークルで参加する全バンドの人数と配置、曲名と曲数と予定分数をそれぞれ打ち込むだけなのだから、日付が変わる前には終わるはずだった。 しかし、全てのバンドの情報を打ち込んだ後に画面が固まった。電波は悪くないはずだが、待っても画面は動かなかった。再読み込みすると入力した内容が全て消えた。わたしはそこでさすがに焦り始めた。 締め切りである0時まであと少し。一年で最も大きなメインイベントだ。既にみんな練習していて、参加できなかったら多大な迷惑がかかる。 ――そう思った時、プレッシャーで息ができなくなった。 慕ってくれている後輩たちに失望されたらどうしよう。 部長がやるべきことなのに、信頼を失ったらどうしよう。 前の部長は当たり前にできていたことなのに。 四年生は今年最後の参加になるのに。 エントリー開始は一週間前で、エントリーする時間は十分あったのに、わたしが後回しにしたから。 “これでみんな参加できなくなったら、サークルメンバーがわたしのことをどう思うか”という不安で感情が埋め尽くされる。 「なに青い顔してんの、愛衣ちゃん」 ――誰か部室に入ってきたことにも気付かないくらい、わたしは動揺していたらしかった。 顔を上げると伊月くんがいた。 さすがにこの時間からバンド練習ということはないだろう、どうしているのだという目を向けると、伊月くんは「忘れ物取りに来たんだよ。俺ここからめっちゃ家近いし」と言って部室のソファに置かれた黒いiPhoneを手に取った。 「で、どしたの」 泣きそうな顔をしているであろうわたしの隣に腰を掛け、パソコンの画面を覗き込んでくる伊月くん。 喋るのは久しぶりだった。 状況を説明すると、伊月くんは「URL送ってー。俺も手伝う」と言ってくれた。 「これこのエントリーページがカスでしょ。名簿の間に追加できないから一バンド分入れ忘れたり順番間違えたりしたらやり直しだし、時間経ったら動かなくなるし、一次保存もできないし」 ソファで一緒に作業した後、半泣きのわたしに伊月くんがそう言った。 「愛衣ちゃんは悪くないよ」 その言葉にいくらか救われたが、時刻はもう0時を回っており、締め切りは過ぎてしまっている。 もう、大型イベントには参加できない。 「どうしよう…………」 「まぁ、イベント運営側のホームページが問題だったんだからどうにかなるでしょ。明日の朝電話しよ」 か細い声を出すわたしを励ますように、伊月くんが背中を撫でてくる。 伊月くんがいてくれて助かったと思った。一人なら、わたしはもっとパニックになっていただろう。
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