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「俺んち来る?」
パソコンを鞄にしまって二人で部室を出た後、部室の鍵をしめながら伊月くんがそう言ってきた。
「もう夜遅いし。送るの面倒だから、泊まっていってもいいよ」
送るの面倒だから、なんて馬鹿正直に言ってくる人も珍しい。
終電の時間も過ぎていて正直もう帰る気力がないし、泊まらせてくれるなら有り難かった。
大学を出て横断歩道を渡ってすぐそこにあるらしい伊月くんの家は確かに大学からすごく近くて、通学が楽そうだなって羨ましかった。
お風呂を借りて、服とタオルも借りて、ソファに横になる頃には落ち着いていた。
もし本当にエントリーができなかったとしても、素直にそう言ってみんなに謝ろう。
大丈夫、代わりに他大学の部長と話し合って他の代替イベントを用意することだってできるはずだ。規模は小さいかもしれないけど――。
今後の方針を考えていた時、隣に座っていた伊月くんの手がわたしの腰に回った。
びっくりしてそちらを見ると、ゆっくりとした動きで伊月くんの顔がこちらに近付いてきて、わたしの唇にその唇が重ねられた。
一瞬硬直した後、慌てて伊月くんを押し返す。
「ちょ、っと。何してるの?」
「何って、キス」
「わたしそういうことしに来たんじゃないよ」
はっきり言って睨むと、伊月くんがきょとんとした顔をした。
「愛衣ちゃんって処女?」
「は? ……いや、普通に、こういうことは付き合ってる人同士がするものでしょ?」
わたしの返答に、伊月くんの目がすっと冷めたのが分かる。一瞬だったが、酷く面倒臭そうな顔だった。
しかしそれもほんの一瞬で、すぐにいつものヘラヘラとした笑顔を浮かべた。見間違いだったかもと思うほどの切り替えの早さだった。
「あー、そうだね。ごめんね? じゃあ俺寝るから、好きにして」
立ち上がった伊月くんが、薄い掛け布団だけわたしに渡して少し離れた位置にある畳の間へ歩いていった。
……なんだったの。
急にキスしてきたくせに、その程度の謝罪で終わり?
伊月くんの非常識な行動に腹が立って、イベントのエントリーのことが頭から吹っ飛んだ。
ああもう寝よう、と伊月くんのいる畳の間に背を向けてソファに寝転がり、目を瞑った。
――目が覚めると朝日がカーテンの隙間から差し込んでいた。
思いの外ぐっすり眠ってしまっていたらしい。上体を起こす。伊月くんは既に起きていて、わたしが起きたことに気付くと近付いてきて水を置いてくれた。
「ページの不具合あちこちで起きてるらしいよ。ホームページ制作会社も土日祝は休みだから、今日中にDMで参加バンドについて全部送ってって」
「……電話してくれたの?」
伊月くんが「まあ」と何でもない風に答える。わざわざ調べて、主催校の部活に電話をかけてくれたらしい。
「わたし、伊月くんのこと誤解してたかも。伊月くんって優しいんだね」
「単純に、参加できなかったら俺が困るってだけだよ。もう練習始めてるしね」
そんな素っ気ない言葉すら、今はわたしに申し訳無さを感じさせないための優しい響きに聞こえた。
笑ってるけど無愛想で、全然心を開いてくれない伊月くんだけど、こういう優しさは持ってるんだって思った。
DMでうちのサークルの参加バンドについての情報を全て打ち込んだ後、わたしは伊月くんの家を後にすることにした。
「……また来てもいい?」
玄関で、後輩が誕生日にくれたハイヒールの靴を履いて、伊月くんを振り返る。
自分でもどうしてそう言ってしまったのか分からない。この家の居心地の良さが言わせたのかもしれない。
気怠げに立っていた伊月くんの口角がゆるりと上がった。
「いーよ。いつでもおいで」
家と学校という、わたしが“しっかりしなければいけない場所”以外の、もう一つの居場所ができた瞬間だった。
その日から週に一度、わたしは伊月くんの家に泊まるようになった。
お母さんやお父さんのこともあるのでそう頻繁には泊まれなかったけれど、週に一度だけ気の休まるその日は、わたしにとって救いだった。
みんなの前では必要以上に会話しないし、わたしと伊月くんがそこまで仲が良いと知っている人はサークル内に存在しない。
それも秘密の共有のようで嬉しかった。秘密基地を作ったような感覚だった。
伊月くんはわたしの話を何でも聞いてくれた。
ずっと言えなかったお父さんの悪口も、守らなければならない存在である妹や弟のことを本当は煩わしく感じたことがあることも、部長なんて実はやりたくなかったことも、後輩に奢る頻度が高すぎて正直お金がキツいからやめたいってことも話した。時には泣きながら喋った。
伊月くんには自分の嫌な部分を曝け出せた。――きっと伊月くんは、わたしに興味がないから。
誰もわたしを頼りにしない、わたしの失敗を受け入れてくれる人がいる場所。
珈琲の香りがするその部屋は、わたしのかけがえのない居場所だった。
「伊月くん、わたしと付き合って」
わたしが伊月くんのことを好きになるのにそう時間はかからなかった。
週に一度わたしの愚痴を優しく聞いて抱き締めてくれる存在に依存しないわけがなかった。
この二人の世界に、わたしは明確な名前を付けたくなったのだ。
季節が変わり、秋になる頃だった。
「いいよ」
存外あっさりとわたしの提案に乗った伊月くんは、それからきちんとわたしのことを彼女として扱うようになった。
休日はデートへ行くし、優しい言葉をかけてくれるし、キスもするし、セックスもする。
ただ、「サークルの子には言わないでね。面倒だから」とだけ釘を刺されていた。
確かにわたしの恋バナとなるとサークルメンバーは大いに食いつくだろう。すぐに噂が広まり、わたしだけでなく伊月くんも注目の的になり、根掘り葉掘りされることは目に見えている。
そういう煩わしさのことを言っているのだと思い、わたしはその要求を飲んだ。この時点で、少しの違和感を覚えなかったと言えば嘘になる。
伊月くんは優しかった。ただその優しさの中に本物があるかと問われれば、きっとそうではなかった。
伊月くんは誰にでも優しい。無条件に振り撒かれる優しさと色気にやられた女子はサークル内でもわたしだけではない。
あの子もあの子もあの子もあの子もあの子も。
注意して見れば、伊月くんとの距離感がわずかにおかしい子なんてサークル内に沢山いた。明らかに一線を越えているだろうと感じられる子も。
そしてそんな話が何一つわたしの耳に入ってこないあたり、上手に口止めしているであろうことも察した。
毎週同じ曜日にしか泊まらせてくれないこととか、洗面所にあったわたしの物ではないピンク色の容器に入ったヘアオイルとか、床に落ちていた金色の長い髪の毛だとか――わたしの秘密基地に侵入してくる全てがわたしを一つの答えに導いていた。
伊月くん、わたしそんなにバカじゃないよ。
そう言えない自分が虚しかった。
言ってしまえばわたしの秘密基地はなくなってしまうと思った。
気付かないふり、バカなふりをしていれば、わたしの居場所はなくならない。そう思えばいくらでも我慢できた。
そうやって都合のいい女でいるうちに、最初の頃は優しかった伊月くんのわたしへの扱いはどんどん雑になっていった。
「怠いから近場でいい?」
以前は遠くの動物園まで連れて行ってくれたことだってあったのに、年が明ける頃には滅多にデートしてくれなくなった。わたしがカフェでパンケーキを食べたいと我が儘を行っても、もう何度も行ったことのある近場の店を提案された。
わたしの居場所は、もう完全に気を許せるような場所ではなくなっていた。
それでも伊月くんとの関係を壊すことはしたくなかった。
この頃には既に伊月くんがわたしの心の支えになっていたから。
あれだけ嫌だった部長業にもやる気が出てきていた。
伊月くんがいるから、伊月くんがわたしの頑張りや苦労を認めてくれるから、わたしは立っていられる。
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