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季節は過ぎ去り、二度目の新歓の時期が来た。
わたしたちは三年生になっていた。もう就職先が決まっている人も出てきた。
本来は部長交代の時期だが、新しい部長に仕事を教えるために、わたしはずっと彼らの仕事を手伝っていた。
新しい部長は一個下のギターパートの子で、悪気はないのだろうがやらなければならないことを忘れることが多々あり、わたしのサポートが必要だった。
そのあたりは幹部同士で支え合ってやってもらいたいものだったが、他の幹部もあまり前もって動くタイプではなかったため、結局その年の新入生歓迎会もわたしがメインになって企画することになった。
正直すごく忙しかった。
軽音サークルに入る新入生は毎年かなり数が多い。初心者で楽器を試してみたい、という軽いノリで入り数ヶ月でやめる子も結構いる。
でも入った時は皆平等に新入生だから、やる気のあるなしに関わらず、一人残らず歓迎しなければいけない。
誰一人取り残さず。みんながこのサークルに馴染めるように、色んな子を色んな組み合わせで色んな場所まで遊びに連れて行った。
その中に桜狐ちゃんもいた。
桜狐ちゃんは友達を作るのが苦手なタイプに見えた。サバサバしているし、思ったことはハッキリ言うタイプで、一緒に遊びに連れて行った子の中でもあまりよく思われていないのがすぐに分かった。
いつもツンとしていて愛想がなく、最初わたしも嫌われてるのかなって心配だったけど、めげずに話しかけ続けると少し笑ってくれた。
その笑顔が可愛らしくて不覚にもドキッとしたのを覚えている。普段滅多に笑顔を見せないからその分ギャップを感じた。
牧場に隣接する卵料理のお店でみんなで一緒に御飯を食べている間も桜狐ちゃんは特に喋らなかった。
新入生同士で仲良くさせるための会でもあったのだが、桜狐ちゃんは結局終始他の新入生とは喋らず、わたしとだけ喋っていた。
「桜狐ちゃん、他の子たち苦手?」
桜狐ちゃんだけその日連れて行った他の新入生と微妙に家の方向が違ったため、帰りの車で二人になった。
助手席に座る桜狐ちゃんに運転しながらそう聞くと、桜狐ちゃんはちょっと考えた後、
「女子って苦手なんです。すぐ群れようとするところとか、特にこういう新しいコミュニティに属そうって時に友達作ろうと必死なところとか、無理に話合わせて共感したりしてるところとか、話の内容に中身ないとことか。見苦しいなって思います」
と歯に衣着せぬ物言いをした。
素直に感心した。
できない、わたしには。こんなにハッキリ誰にどう思われるとか気にせずに、自分の好き嫌いを言うことなんて。
「あと私、楽器できませんし。男目当てで入ったと思われてます」
思い当たる節はあった。
桜狐ちゃんは可愛いから、一部のいい加減な男たちから初っ端からチヤホヤされていたのだ。それを見ていい気がしない子はいただろう。
でもそれは桜狐ちゃんが悪いわけじゃない。人数が多い分、女子との出会いのためにこのサークルに所属している男が少なからずいるせいだ。そんなことで桜狐ちゃんが仲間外れにされるのは間違っている。
「それは誤解されすぎでしょう」
「……愛衣先輩はそう思わないんですか?」
「全く。桜狐ちゃん、バンド好きなんでしょ?」
サークルに正式に入ると決まった時、新入生一人一人に意気込みを聞く機会があった。その時、桜狐ちゃんは誰よりも真剣にこのサークルを選んでくれたんだっていうのが伝わってきた。
楽器はできないけど精一杯歌います――このバンドとこのバンドが好きで、この曲がやりたいと思ってて――他の人たちの演奏をより彩れるように頑張ります、だっけ。少なくともわたしには、今年入ってきた新入生の中で一番熱意があるように思えた。
「音楽がやりたくてこのサークルに入ってくれた期待の新人ってわたしは思ってるよ。入ってくれてありがとうね」
桜狐ちゃんは何も言わなかった。ただグス、と鼻水を啜るような音だけが聞こえた。
マンションの前まで桜狐ちゃんを送った後、桜狐ちゃんがわたしを見てお礼を言ってきた。
「今日は、連れてってくれてありがとうございました」
お礼ちゃんと言える子なんだ、と失礼ながら驚いてしまった。
少しも表情筋を動かさぬまま感謝の気持ちを伝えてくる桜狐ちゃんが面白くてちょっと笑った。
桜狐ちゃんをおろした後、自分の家へ向かって運転しながら、もうちょっとあの可愛い笑顔を他の子にも見せたらとっつきやすくて、みんなと仲良くなれると思うんだけどなあ、なんて思った。
同時に、なかなか懐かない猫みたいなところが、方向性は違えどちょっとだけ伊月くんに似ていると思った。
伊月くんの態度が明らかに変わったのは、その年の新入生歓迎ライブが終わった後、少ししてからのことだった。
元々雑だったわたしへの対応がより雑になり、一緒に出かけても心ここにあらずといった感じで、ずっとスマホをいじるようになった。
新入生歓迎でずっと忙しくてなかなか会えていなかったので、少し間が空いたせいだとも思ったが、原因が別のところにあるのはすぐに分かった。
毎週の部会の後、伊月くんの方から桜狐ちゃんに話しかけにいっていたのだ。
変な噂が立つのが嫌だからと特定の相手と必要以上に話し込まないあの伊月くんが、毎週毎週同じ相手と長々と喋っている光景は異様だった。
サークル内の女子に人気な伊月くんに気に入られていると受け取られ、桜狐ちゃんはこれまで以上に孤立していった。
伊月くんが桜狐ちゃんを気にかけるその様子を見ていて、これまでの他の女への扱いと全然違うように思えた。
女の勘? 違う。これまで伊月くんの傍でずっと伊月くんを見ていたからこそできる推測だ。
――伊月くんは桜狐ちゃんを気に入っている。それが恋かどうかはともかく、これまでの相手に向ける感情とは別物の何かを桜狐ちゃんに対して抱いているのは確かだった。
そろそろ捨てられるかもな、と漠然と思うと共に、どうしようもない恐怖がわたしを襲った。
居場所がなくなる。またわたしの生活が家と学校の往復になる。
それが本当に怖くて、わたしは伊月くんにとにかく尽くすようになった。
バイト代でこまめにプレゼントをしたり、ほしいと言っていたものを買ってあげたり、伊月くんの家の掃除をしたり、伊月くんが好きなバンドのライブチケットを必死こいて取ってあげたりもした。わたしは伊月くんに縋っていた。
「俺のために何でもしてくれるとこ好きだよ」
そうやって努力しているうちに、滅多に聞かなくなかった好きという言葉もまた聞けるようになった。
その様子を見て、尽くせばまたやり直せると思った。
自分の秘密基地がなくならないためなら何でもしようとしていた。
伊月くんを、あの場所を失うのが一番怖い。
そう思って尽くしに尽くした、なのに。
「愛衣ちゃん、俺の言うこと何でも聞ける?」
ある日伊月くんがそんなことを聞いてきた。
「聞けるよね、いい子だから」
言い聞かせるような甘い響きがわたしを締め付ける。もう伊月くんの言うことを聞かないなんて選択肢はわたしの中になかった。わたしは恐怖に支配されていた。
「由良のこと落として、付き合って」
予想外の言葉をかけられて、伊月くんとの関係は終わりを迎えることになる。
「……え?」
「聞こえなかった? 由良と付き合って。由良、愛衣ちゃんのことタイプらしいよ」
聞き返しても、聞き間違いじゃないことが分かるだけだった。
「……わたしたちはどうなるの?」
「そりゃ、由良と付き合ってもらうんだから、別れるよ。二股しろとは言ってないよ。付き合うなら本気で付き合ってあげて。あいつちゃんとしてるから、二股するような女好きじゃないと思うし」
絶望した。
――面倒になったんだ、この人は。わたしの存在が。
だから他の男に押し付けようとしている。
「由良はただの友達だよ?」
頼りになるギターパートの同級生。ただそれだけ。
「俺の言うことが聞けないの?」
残酷な伊月くんのわたしに向ける笑顔は、ずっと変わってない。仲良くなり始めの頃からずっと。
その感情のない笑顔は、桜狐ちゃんに向けるそれとは違う。
「なんで? ねえ、なんでそんなこと言うの? わたしなにかした? 文句言わなかったでしょう、何一つ。伊月くんが他の子と遊んでても、デートに連れて行ってくれなくなっても、一緒にいる時ずっとスマホ触るようになっても、何も言わなかったでしょ? どこがそんなに面倒だった? 週に一回少し会うだけでも嫌になった? わたしダメなところは直すから、ちょっとでも会ってよ。ねえ、お願い。他の子と会っててもいいし、伊月くんが他の誰を好きでもいいから、まだわたしと一緒にいて。都合のいい存在でいい、伊月くんのこと失いたくない、伊月くんが好き、もうカフェ連れてってとか我が儘言わない、傍にいてくれるだけでいい、だから――」
泣きながら縋るわたしの手を、伊月くんが優しく振り払う。
「愛衣ちゃんが俺の言うことちゃんと聞いてくれる限り、俺は愛衣ちゃんのことが好きだけど、そうじゃない愛衣ちゃんはいらないかな」
“いらない”。なんて残酷で、呪いのような言葉なんだろうと思った。
どうしてこの人はそんな言葉を笑顔で言えるんだろうって思った。
そこからわたしはいくらか泣き喚いたはずだけど、伊月くんは一切わたしの訴えを聞いてくれず、次の日からわたしは操り人形みたいに由良に話しかけ仲良くなった。元々友達としては仲が良かったけれど、そういう目ではいつまで経っても見れなかった。わたしの心にはずっと伊月くんがいた。
でもわたしには伊月くんがいなくなった分の心の隙間を埋める拠り所が必要で、由良は少し足りないにしろその拠り所になってくれた。
そういう意味では、面倒臭いメンヘラを自分から離す手段としてうまかったなぁと思って虚しくなった。
伊月くんはこれまでわたしみたいな状態になる女なんて何人も見てきたんだろう。自分への依存をどうにかするためには、他の依存先を与えるしかない。伊月くんのやり方は、慣れた人のそれだ。
わたしは本当に由良と付き合い始め、伊月くんが言っていたように真剣に交際し、伊月くんとは会わず、そのまま季節が過ぎ去った。
最初は苦しかったけど、伊月くんと会わないうちにだんだん感情が安らいできて、由良のことも少しずつ好きになれた。
由良はちゃんとした人間で、伊月くんなんかよりもずっと本当の優しさを持っていた。
しかしその由良も何故か必要以上に桜狐ちゃんを気にかけていた。
それに気付いた時、――何でいつもあの子なんだろう、と少しだけ、ほんの一瞬だけ性格の悪いことを考えてしまった。
何でなんて、考えなくても分かることなのに。悔しくてそう思ってしまった。
桜狐ちゃんの魅力は沢山ある。由良が桜狐ちゃんを好くのも分かる。
だけど、どうしても由良だけはあげたくなかった。だってわたしには心の支えがないといけないから。
「あの子絶対由良先輩のことからかって遊んでるんですよ! サイテー!」
飲みの席で後輩たちがそう言った。後輩に注意しつつも、ああそうなんだ、と悲しかった。
桜狐ちゃんとは春、少しでも仲良くなれた気がしていた。
遊び半分でわたしの彼氏を取ろうとするほど、わたしは好かれていなかったのかな。
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