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『自分の信者くらいコントロールしてよ』
久しぶりに伊月くんから電話が来たのは、冬を迎えた頃だった。
出た瞬間もしもしもなしに急にそんなことを言われ首を傾げた。
感情の起伏が少ない伊月くんが声に怒気を孕ませていたから、余計に。
「……何の話?」
『桜狐が殴られたって言ってんだけど? 愛衣ちゃんの後輩に』
頭が真っ白になった。
え……? 何で?
『本当に何も知らないんだね。愛衣ちゃんが由良が由良がって騒ぐから、変な正義感持った奴らが暴れだしてるんでしょ。桜狐を悪者にして』
「殴られたって、……え? そんなことする子うちのサークルにいないよ」
『そう思ってんのはお前だけだよ。実際殴られてんだし』
思い返せば、心当たりはあった。
昨日飲み会でわたしは泣いてしまったし、それをきっかけとして隣に座っていた後輩たちが口々に桜狐ちゃんの悪口を言い始めていた。
酔い過ぎて眠ってしまったから、その後話がどう収束したのかは知らない。
でも……事実確認をする必要はあるだろう。
「分かった。思い当たる子に聞いてみる」
『愛衣ちゃんは過激なファンが多いからなー』
「……久しぶりに電話かけてきたと思ったら、桜狐ちゃんのことなんだね。そんなにあの子が好き?」
春の別れ話の時よりはいくらか冷静に聞けた。由良のおかげで少しだけ伊月くんへの執着を消すことができているからだろう。
『愛衣ちゃんには関係ないでしょ』
――……ああ、わたしには踏み込ませてもくれないんだ。
その時、自分が部外者であることを強烈に自覚した。
:
わたしが陰で愚痴を言うような態度だったから、桜狐ちゃんに危害が及んだ。
カフェテリアの一番奥の、比較的騒がしくないスペースで桜狐ちゃんと向かい合って座ったわたしは、謝罪をしてから確認をした。
「わたしのことが嫌い?」
言いながら、泣きそうになる。ああそうか、わたしはいつもこればかりなのだ。人に好かれていたい。頼られていたい。そうでないことが怖い。
だから今日まで、桜狐ちゃんとちゃんと話し合うことができなかった。
「愛衣先輩のことが嫌いなわけじゃないんです。由良先輩が好きなんです」
桜狐ちゃんから出てきたのは、わたしの予想しなかった返答だった。
これまでどうして桜狐ちゃんが執拗に由良を追うのか分からなかった。でも、もし本当にそれが理由なら。
「由良が好きなの……?」
「はい」
「それが、本音?」
「そうです。身勝手な恋愛感情で、お二人の仲を邪魔してごめんなさい。でもやっぱり由良先輩が好きなので、辞めるのは無理です」
桜狐ちゃんの真っ直ぐな眼差しは、嘘をついている人のものには見えなかった。
そうか。だからあの時、伊月くんはわたしに由良と付き合えと言ったのだ。
この子から、由良を奪えと。
虚しくて自嘲的な笑いが漏れた。
そんなに必死なんだね、伊月くん。
「わたしが伊月くんに同じことしても、そう言える?」
――桜狐ちゃんが由良のことを好きなら。
まだわたしにもチャンスはあるんじゃないだろうか。
少なくとも、あの伊月くんがそこまで必死になるくらいなのだから、桜狐ちゃんが伊月くんを好きになる見込みはそれほど無いのだ。
何も知らない、分かっていない桜狐ちゃんは、わたしの発言に対して終始怪訝そうな顔をしたままだったけれど。
【二人で話したいことがあるから、明日会えない?】
たった一行のそのメッセージを送るにはかなりの勇気が必要だった。
きっと伊月くんはわたしがこれを送るのにどれほどの時間をかけたか分かっていないだろう。
彼のことだ、きっと酷い言葉を使って断ってくるに違いない。伊月くんと付き合っていた頃かけられた酷い言葉の数々がフラッシュバックする。でも、やらずに後悔するよりはやって後悔した方がいい。
伊月くんから返信が返ってきたのは、わたしがメッセージを送ってから何時間も経った後だった。
【いいよ。どこがいい?】
一体どんな気紛れなんだろうと思った。
別れてから一度もわたしと二人で直接は会おうとしなかった伊月くんが、こんなにあっさり会おうとしてくれるなんて。
動揺しながら、精一杯のお洒落をした。服にそんなにお金は使っていない。でも、ハイブランドとプチプラを組み合わせてできるだけ高見えさせたコーディネートで、付き合っていた頃よく行っていたカフェまで、伊月くんに会いに行った。
「で、なに?」
伊月くんは相変わらず格好良かった。服もお洒落だし、顔も整っているし、二人きりで対面しているとドキドキしっぱなしだった。
「伊月くん、わたし、伊月くんが好き」
伊月くんが目を細める。
「由良は? 切ったの?」
「切って……ない」
そこを聞かれると痛かった。由良とはまだ話し合えていない。正直、伊月くんに振り向いてもらえる1%にも満たない可能性に懸けて、由良という依存先をいきなり消すのが怖かったからだ。でもそれ以外にももう一つ理由がある。
「だって、彼氏とわざわざ別れてまで自分に告白してくるような女、伊月くんはウザいって思うでしょ」
もう分かってるんだよ、あなたにとって何が面倒か、どんな女が鬱陶しいか。
そういう思いを込めて伊月くんを見据えると、目の前の伊月くんはゆるりと口角に弧を描いた。
「やっぱり面白いね。愛衣ちゃん」
――期待した。
仲良くなり始める前の頃と同じ笑顔で、同じ声のトーンで、わたしに笑いかける伊月くんを見て、きっとまたやり直せると思った。
実際その日から、伊月くんはわたしとよく遊んでくれるようになった。
誘えばいつでも乗ってくるし、大学でも人目を憚らずに話しかけてくるようになった。
――期待した。
だってその対応は、桜狐ちゃんにしていたものと同じだったから。
由良と一緒にいても平気で話しかけてくるから、由良は凄く不思議そうにしていたけど。
――期待した。
恋人みたいに甘く囁いてきて、簡単に触れるから。
由良との関係が切れていないのにこんなことをするのは間違っているって分かっていたけれど、この世で唯一伊月くんの前だけでは、わたしはいつものわたしでなくなる。
いつの間にかわたしは由良と目を合わせられなくなった。
由良と会う時、心の底から笑えなくなった。
由良は本当にいい人で彼氏として申し分なくて、何も悪いことなんてしていないのに、何の罪があるわけでもないのに、わたしという人間に裏切られている。
伊月くんに久しぶりに抱かれた後、わたしに背を向けて眠る伊月くんを盗み見ながら、ふと我に返って物凄いショックに襲われた。
自分はこういうことが平気でできる人間なんだって。
正しくありたかったはずなのに、正しくなれなかったんだって。
それでも、自分への失望よりも伊月くんへの期待の方が大きかった。
わたしとずっと一緒にいるようになってから、伊月くんは桜狐ちゃんとあまり会っていないようだったから。
何を考えているのか分からない伊月くん。分からなくたっていい。ただわたしの傍にいて、わたしの居場所に戻ってくれれば良い。
そう思っていた、なのに。
「最近由良のこと疎かにしすぎなんじゃないの?」
その日の伊月くんは朝から機嫌が悪かった。寒い廊下でポケットに手を突っ込んで、酷く冷たい目をしてわたしを見下ろしてきた。
「……え?」
「愛衣ちゃんの彼氏は由良でしょ。俺にかまけすぎてないで、由良の方にもちゃんと首輪付けといて?」
視界がぐらぐらと揺れた。どうして急にそんなことを言うんだと思った。ベッドの中にいる時は、好きだの由良に嫉妬するだの、わたしにとって都合のいい、わたしが喜ぶような甘い言葉ばかり吐いていたくせに。態度が変わりすぎだ。別人かと思うほどに。
「わたしが由良と仲良くしててもいいの?」
「だめとか言ったっけ?」
「だってこの間の夜……」
「セックス中に男が言うことを信用するなんて、愛衣ちゃん意外と可愛いとこあるよね」
こちらをバカにするような半笑いを向けられ、じゅくじゅくと心臓が汚く潰れていくような気持ちになった。
「桜狐はベッドの中で俺が何言ったって白けてるよ。あまりに響かないから、言うのやめちゃったなあ」
楽しそうに愛おしそうに、少し悲しそうに笑う伊月くんの笑顔を見て傷付いた。
わたしの気持ちを誰よりもよく知っているくせにここでその名前を出してくるのは喧嘩を売っているとしか思えなくて、拳を握り締めた。
「それってわたしより桜狐ちゃんの方がいいって話をしてる?」
「うん」
あっさり肯定され、手に力が籠もる。どうして気付かなかったんだろう、伊月くんがわたしに向ける目は、今も昔もいつも酷く冷めている。今に始まったことじゃない。
「意味が分からない。何で急にそんなこと言い出したの?」
「由良と桜狐が二人で一緒にいたから。それくらい防げよ、と思って」
「……わたしに八つ当たりしてるって解釈で合ってる?」
「八つ当たりね。そうかもね」
言動が支離滅裂だ。結局わたしに由良を繋いでおいてほしかったなら、どうしてわざわざ時間を割いてまでわたしの相手をしていたのか。
人通りもそこそこある廊下で、わたしは平静を保つのに必死だった。
「桜狐ちゃんが今でもそんなにお気に入りなら、何で今更わたしとこんなに関わろうとしたの?」
わたしはまだ期待していた。もしかしたらわたしの望む答えが返ってくるんじゃないかと。桜狐ちゃんのことは気に入ってるけど、わたしのこともそれなりに好きなんだって、そういう言葉が返ってくるだろうと予想していた――しかし。
「俺がどの女と仲良くしててもなーんも反応しない桜狐が、愛衣ちゃん相手なら嫉妬したからだよ」
伊月くんが返してきたのは、わたしが期待していたどの言葉とも違っていた。
気付けば乾いた音が廊下に響いた。人目があるのに、わたしは泣きながら伊月くんを平手打ちしていた。
「最低。伊月くんなんか、一生桜狐ちゃんに振り向いてもらえないよ」
ぼろぼろと涙が溢れてくる。鼻水も出てきて、自分のことをみっともないと思った。
廊下を通る人がチラチラとわたしのことを見ているのが分かる。いつもならもっと周りを気にするわたしも、今ばかりは怒りの方が勝った。
「人の気持ち振り回して、人のことを道具として利用して、少しも罪悪感なかった?」
違う。伊月くんのことを道具として利用していたのはわたしもだ。伊月くんは安心できる都合のいい居場所だった。だから離れたくなかったし、離れられなかった。
今この言葉が伊月くんに少しも響いていなくて、バカな女の戯言として右耳から左耳へ抜けていってることくらい、分かる。
「じゃあ聞くけど。愛衣ちゃんは由良に対して少しも罪悪感ないの?」
「――……」
「愛衣ちゃんはいつも、自分だけは正しい、みたいな顔してるよね。間違えてばかりなのに」
薄く笑って見下ろす伊月くんはわたしの本質を突いていた。
「そろそろ授業始まるね」
スマホで時間を確認したらしい伊月くんが、立ち尽くすわたしを通り過ぎて講義室へ入っていく。
わたしはとてもじゃないがこれから授業を受ける気にはなれなかった。
講義室へ向かう学生の流れに逆行して、人が少なくなっていく階段を下りる。初めて講義をサボってしまった。
どうして自分が伊月くんにこんなに執着していたのか、今なら少し分かる気がする。
傷付けられたから忘れられないのだ。
深い傷ほど治るのに時間がかかる。
わたしはその傷跡から出る痛みを愛だと勘違いして、伊月くんを求めていた。
階段の踊り場で壁に背を預けてズルズルと座り込み、大きな溜め息が出た。
「……正しく生きたい……」
ぽつりと呟いたその言葉は静かな階段によく響く。
由良とのトーク画面を開き、【話し合いがしたい】という由良のメッセージに返信した。
最近わたしの様子がおかしいことに由良はとっくに気付いていた。それでも何も言わなかったのは彼の優しさだろう。彼は正しい。だからきっとこれは別れ話だ。
最後に全てを話そう。
それでもう終わりだ。
わたしはもう誰の存在も利用しない。そうしなければならない。
今ならまだ戻れるし、やり直せると、信じるしかない。
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