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脳の錯覚だと思った。一時の気の迷いだと。
しかし確かにその日から俺の調子はおかしくなり、桜狐に話し掛けるのが気まずくなった。
他の女にはいくらでもできる連絡の内容を考えるのにも時間がかかり、返信が遅いとイライラした。
それどころか桜狐の好意がチャラ男から由良に移っていることに気付いて焦り、一応付き合っている女を利用して由良を桜狐から切り離そうとまでしてしまった。
こんな状態になったのは初めてで、人間のことがここまで気になったのも初めてだった。
「初恋ってこと? 面白いね」
来月結婚する年上のセフレが、ベッドの上で俺の話を聞いてそう嘲った。
「まだまだ子供だなぁ、伊月くん」
「あは、そう思うー?」
「うん。大学生なんてまだガキンチョだよ。モラトリアムを楽しんで」
そう言いながら下着のホックを付ける彼女の左手の薬指には指輪が光っている。
「散々女の子泣かせてるんだから、この辺で女の子に泣かされた方がいいよ、君は。じゃあね」
それが彼女と会った最後の夜だった。
賢い女は早々に遊びを切り上げて、みんな俺を置いていく。
:
「あ、そうだ伊月先輩。3回私からの誘い断ったらそこで終わりね」
セフレ関係も安定してきた夏の終わり頃、桜狐がふと思い出したかのようにそんな提案をした。
「私のこと寂しくさせる男嫌いなんです」
そのセリフを聞いた時、見た目が変わっても桜狐はおぼこいままなんだと思った。
寂しがり屋で純粋で、クズ男に騙されて痛い目を見て現実を思い知るしかなくて、諦めて無理矢理自分を変えただけの弱い女の子。
そう思った途端にどうしようもない程の庇護欲が湧いてきた。こんなクソめんどくさいこと言う女、メンヘラっぽいから予防としていつもならすぐ切るのに、何故か律儀にその約束を守って桜狐のことはできるだけ断らないようにした。
桜狐の変化が、沢山の深い傷の上に成り立っていること、桜狐と一緒に居ると嫌でも分かったから。
女という生き物を厄介だと思ったのもこれが初めてだった。
「好きだろ。お前、あいつのこと」
ある日授業で一緒になった時、由良が不意にそんなカマかけをしてきた。
「お前舐めてる女にはちゃん付けするし」
「え~? 何の話?」
「桜狐だけ、呼び捨てだ」
無意識だった。
「別に好きじゃないよ。俺恋愛感情とかよく分かんないからなぁ」
「お前が桜狐のこと好きじゃねぇと困るんだけど」
心配なんだよこっちは、と保護者面する由良のことが心底気に入らない。
持っているシャーペンで手を刺したいくらいだった。
「素直にならないうちに、取られるぞ」
「しつこいなぁ」
「好きなら大事にしろ」
大事にしたいよ、俺だって。でも桜狐、全然振り向いてくれないんだもん。
拗らせても仕方無くない?
:
「先輩、あの子ともここでしたの?」
珍しく俺のセフレの子の存在を気にし出したかと思えば、
「同じ場所だったら興奮するなって思っただけです」
なんてふざけたことを言うこの女が、俺の好きな女だ。
興奮する? 俺は桜狐が他の男に抱かれてるって想像しただけで、その男のことぶち殺したくなるよ。
なんて愚痴をこぼしたくなったが、そんなことを言っても桜狐は引くだけだろう。
まだ早い。
相手は試しに好きだと伝えても眉間に皺を寄せて“え、何言ってんのコイツ?”みたいな顔をする子だ。
ここまで定期の関係性を築けたのだからここまで来たら確実に手に入れたい。
桜狐の口から俺が欲しいと言うまで待ちたいし、そう仕向けたい。
そう思うのに、桜狐の気持ちがこちらへ向く兆しは一向になかった。
ある日、ぽつりと愚痴を零してしまったこともある。
「桜狐って男の趣味悪いよねぇ」
新入生時点ではあんなヤリモク感満載のダサ男好きだったくせに、俺には少しも靡かないってどういうこと?
桜狐があの男に騙されて学習しちゃったってことなんだろうけど、だったら俺も新歓時点で桜狐のこと口説いとけば勝ちだったじゃん。
「何ですかそれ、由良先輩のことバカにしてます?」
俺の隣でゴロゴロしながらムッとして文句を言ってくる桜狐。眉すら書いていないどすっぴんのその顔すら愛しく思えてしまうのだからもう末期だ。
「いや、べっつに〜」
あのダサ男には勝てても由良に勝てる気はあまりしない。俺とは正反対の男だ。誠実でそこそこ性格もよく面倒見もいい。
あのダサ男に騙されてから、日に日に桜狐の男への警戒心は強まっている。だからこそ周りにいない、男っぽくない由良に惹かれるのだろう。
桜狐を抱いて眠るのは安心する。
腕の中に桜狐がいる時は落ち着く。
でもいない夜は今誰といるのだろうと考えてこちらが気が狂いそうになる。
桜狐は知らない。
俺が桜狐が出るライブだけは全部ちゃんと見ていることも、その歌声を少しでも聞きたくて強引に同じバンドを組もうとしていることも、桜狐に友達ができたら焦っていることも。
あの手この手で嫉妬を煽ってみても失敗だった。押してダメなら引いてみろなんていう古典的な恋愛テクニックを試してみても、甘い対応をした後で突き放してみても駄目だった。桜狐はやっぱり由良が好きだと言う。
桜狐じゃなければいくらでももらえるそのたった一言を俺は桜狐の口から聞くことができない。
――ねえ、俺の方がずっと傍にいるのに、何でそいつがいいの?
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