君の声

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酌をしたらし返される。 当たり前の現象に柳井は心の中で項垂れた。右手にはビール瓶、左手には満たされたグラスを持っている。これを飲み干せばまた注がれるに違いない。 アルコールには強いので酔ってはいない。しかしビールばかりを納めた胃は膨れて、跳ねれば水音がしそうだった。 取引先と代理店を招いた大掛かりな忘年会が毎年十一月の半ばにある。十二月になるとどこも年末に合わせて業務を調整し始めるので忙しい。なのでその少し前に大人数を集めての宴席が通例となっていた。 四回目の酒宴なのに柳井は酌の返しをうまく断ることができずにいた。見知った自分の担当者から他の同僚が取引している客先の人間まで、隙あらばグラスを満たそうと手ぐすねを引いている。酒を飲ませるのが好きな人が多すぎる、と胸の中で息を吐く。 さっきまで一緒にいた直属の上司は酒に弱い。どうしているのかと確かめると、飲めもしない焼酎の水割りを片手に持っていた。 口をつけるふりをしながら呼び止める客先の担当者と雑談をし、氷が溶けるとそのままホテルの給仕に渡してまた新しい水割りを貰う。勿体無いとは思うけれど彼なりに自衛の策を講じているようだ。上司は如才のないタイプなので呑んでいないことには気づかれていない。 その手はいいなと丁度話が途切れたので柳井は席を立った。三時間の予定で始まった忘年会はもう既に二時間が過ぎている。出来上がった同じ部署の先輩が一際大きな声で笑っているのが柳井のところまで届く。酒癖の悪い人なのでもう少ししたらフォローに行かなければなと頭の中にメモをした。 つい性格で周りを見渡しながら、壁際に設けられたボトルの並ぶスペースへと身を寄せる。 賑やかな席は嫌いではない。適度に会話をして酒を飲むことは苦ではない。しかし今日はあまり気が乗らなかった。 最後に櫻田と顔を合わせてから一ヶ月以上が経っていた。気まずいまま別れて、それ以来会っていない。彼から連絡はないし、柳井もしない。 彼の告白めいた言葉を無視しておいてどの面提げて連絡できるというのか。もし次に櫻田の顔を見ることがあれば、それは偶然か彼が連絡をくれた時だと決めていた。 けれど今日のような夜は櫻田の低く静かな声が恋しくなる。大勢の人に囲まれてそれぞれの声に流されやすい柳井には、あの芯の通った強い声が必要だった。
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