君の声

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目の前の彼女はまだ何か言いたそうにしていたけれど気づかないふりをした。仕事の話をする顔をしてロビーに出る。端に空気清浄機と細長い灰皿があって何人かが集まっている。酒の誘いから逃げたのか上司が今度は煙草を片手に談笑していた。 いつもは吸わない煙草は殆ど指に挟まれたままで思い出したように口に持って行ってはお情け程度に煙を吸い込んでいる。 あの要領の良さが柳井にはない。社会人として働いていく上で必要な狡さが足りない。無いなら無いなりに真似事ででもいいから身につけなければ自分が苦しむだけだ。 見た目よりも真面目で人に誠実であろうとする柳井はいつも苦しかった。上面で判断されて違う自分を押し付けられる。それを否定する強さが自分にはない。笑って受け入れて、だから周りも柳井をそんなものだと疑わない。 唐突に櫻田の怒った目を思い出した。しっかりして下さいと叱られたような気になった。もう会わないと決めた青年に縋るように彼の声を頭の中に探していた。 もしかしたら満腹のビールで酔ったのかもしれない。殆ど減っていないグラスを結局ホテルのスタッフに渡してトイレに入る。 鏡に映った顔はいつも通りだった。けれど気分を変えるために手を洗った。水の冷たさに温まっていた体が落ち着きを取り戻す。しばらくそうしていると次第に思考もクリアになってきた。 そろそろ悪酔いをしていた先輩を連れ出しに行かないと、と自分のやるべきことを考えつくくらいには冷静になっていた。 パンツのポケットにしまっておいたハンカチを取り出して手を拭く。滑らかで柔らかな肌触りと淡い色使いのハンカチは櫻田から貰ったものだ。 手持ちのものをローテーションで回しているのでわざとではない。たまたま今日手に取ったのがこのハンカチだっただけだ。 どこか言い訳のように独言(ひとりごち)ながら濡れたそのハンカチを額に押し当てた。 こんなにも頼りにするなら受け入れてみればよかったのにとも後悔する。この執着は恋愛感情にも似ている。櫻田が望むのであれば恋人の真似事をしてみてもよかったのかもしれない。 しかしそんな不誠実なことは、嫌だった。あの櫻田の真摯な眼差しの前で、不確かな感情のまま彼の気持ちを受け入れることはできなかった。
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