君の声

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名前のない感情を抱えたまま柳井は手洗いを出る。宴もたけなわな忘年会も後少しでお開きになる。二次会に連れて行かれるかもしれないけれど明日は土曜日だと思うと乗り切れそうな気がした。 「あ、柳井さん」 とりあえず先輩をレスキューしようと歩き出したところで背中から声をかけられる。気取った響きのある鼻にかかったその声に聞き覚えはあった。 振り返ると、相変わらずねっとりとした目つきの女性が立っていた。月曜日の打ち合わせ中にボティタッチを欠かさないあの女性担当者が、にっこりと笑って柳井を見ている。 そういえば今日はまだ話をしていなかった。無意識に避けていたのだろう。酒の入った彼女に近づくのが怖かったから。 けれど面と向かって呼び止められては立ち止まるしかない。微笑みながら柳井は彼女に向き直った。 「今日は楽しんで頂けてますか」 「ええ、良いお酒を飲ませて貰ってます。柳井さんと中々お話出来なかったのが残念ですけど」 「申し訳ありません。お声を掛けようとしたのですが他の方と話されていたので。こうやって声を掛けていただけてよかったです」 たっぷりと社交辞令を含んだ挨拶をしながらさり気なく足を半歩下げる。彼女が近づいて来たからだ。アルコールでほんのり赤らんだ頬を綻ばせながら彼女がゆっくりと柳井に寄ってくる。 (しな)を隠しもいないところが厭らしい。柳井への好意を纏わりつかせて目の前にやって来る。 仕事の相手だという自覚はないのだろうか。柳井が断りにくいだろうという配慮がまったくない。むしろ立場を笠に着ている節がある。 「お話がしたいのでこの後飲み直しませんか」 「…二人で、ですか?」 「ええ」 彼女自身が蠱惑的と信じている表情で上目遣いに柳井を見る。スーツの下で鳥肌が立った。露出している首筋も粟立っていくのに慌てて手のひらで隠す。 「…お互いの上司も一緒であれば喜んでお受けしたいのですが、女性と二人きりだと何かと噂をされやすいもので。申し訳ありませんがまたの機会にさせて下さい」 「いいじゃないですか。いま、彼女さんもいないんでしょう」 「え」 「さっき職場の方と親しげにお話ししているのを聞いたもので」 さっきの雑談がたまたま聞こえたのか。いや、そんな大きな声ではなかった。では態々近くで聞き耳を立てていたのだろう。想像しただけで背筋がひやりとした。
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