君の声

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そもそも恋人がいなければ二人で飲みに行っても構わないと言う道理がわからなかった。不貞ではないから、一晩の付き合いくらいいいだろうと思っているのか。自分の下衆な勘ぐりに柳井は気持ちが悪くなった。 「…申し訳ありませんが先約がありますので」 なんとか言い逃れて横をすり抜けようとするジャケットの袖をぎゅっと掴まれる。振り払うことが出来ず、柳井は立ち止まらざるを得なかった。 タチの悪い酔い方している。 会社の、ましてや社外の人間がいる場所でこんなふうに触られて、周囲がどう見るか。ひどく不快だった。どいつもこいつも酒量を弁えていない、と柄にもない悪態が喉まで込み上げる。 けれどいつもだったらきっと苦笑いで流している。酔っているのだから仕方がない。そう言い訳をして角が立つのを控えていた。 「失礼ですが、袖を離して頂けますか。このようにされると困ります」 丁寧に彼女から体を離して袖を取り戻す。柳井を見上げた彼女は驚いた顔をした。普段なら笑ってさらりと躱す柳井の、はっきりとした拒絶を想像していなかったらしい。 腕を掴まれた時、真っ先に考えたのは櫻田のことだった。彼だったらどうするだろうかだった。取引相手の女性に職場に準ずる場所で触れられたら。意に染まない誘いを持ちかけられたら。 あの彼ならきっと毅然と対応する。やめて欲しいという自分の要望をしっかり相手に伝えて、今後もしないでくれと言うだろう。あのまっすぐな櫻田なら必ずそうする。 だから柳井もその通りにした。 「以前から気になってはいました。打ち合わせの時によく手が触れるなと。そう思ってはいたのですがこちらの勘違いということもありますし、中々言い出すことが出来ませんでした。でももし万が一、意図的にということでしたら今後はやめて頂けますか」 はっきとした口調で言い切った柳井に彼女が目を見開く。赤い唇がぽかんと開いてから数回戦慄き、きゅっと結ばれる。 「……そんなつもりはありません。失礼な勘違いはやめて下さい。あれはただ手が当たっただけです」 「そうですか。伺う度に毎度だったように記憶していますが、私の思い違いだったようです。失礼しました」 「本当に失礼です。こんな公の場所で、私をそんな、仕事中に態と異性の手に触るような女だと言い出すなんて」
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