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「こんなところではなんですので社長をお呼びして場所を移しましょう」
「いえ、ここで結構です。それに兄は大分酔っていましたから」
「しかし勝手に話をしてはあなたが叱られてしまいませんか」
彼女は押し黙って胸の前で指先を組み合わせた。きらきらと光る丁寧なネイルを揉みしだくように擦り合わせる。損得を計算する赤い唇が何度か微かに開閉して、結局は固く結ばれた。
静かに息を吐いた上司が眼鏡のブリッジを持ち上げる。そしてこのやりとりに飽いているのを隠すように表情を整えた。微かに足を踏み替え、そういえばと世間話の調子で話を換える。
「先ほど、安堂商事の木津根さんとお話をしていたのですが」
「……それが、何です」
「いえ、あなたの仕事ぶりは有名なようですね」
良いこととも悪いこととも明言しない言いように、目の前の女性が勝手に青ざめる。この曖昧な物言いは上司の得意とするところだった。彼の意味深な雰囲気は、よく人を疑心暗鬼に陥らせる。
「…もう結構です。会場に戻ります」
案の定、彼女も早々に話を切り上げたがった。
「そうですか。もし気が変わってやはり納得できない、ということでしたら柳井ではなく私にご連絡を下さい」
「ですから、もういいです。やめて下さい」
悲鳴のように声を荒げた彼女は怯えたように背の高い上司を見上げる。それから踵を返すと足早に去っていった。
呆気に取られる柳井を上司が振り返る。
「朝倉課長」
「五味さんが揉めてるみたいだって教えてくれました。まさか本当に拗れているとは思いませんでしたが」
五味さんとは柳井の隣に座っているアシスタントの女性のことで途中までは一緒にいた。顔馴染みの客先に呼ばれて離れたけれど気を配ってくれていたらしい。助かったと思う。自分だけではうまく収める自信がなかった。
「…申し訳ありません。これは、あの」
「明日聞きます。今日はもう駄目です。こう見えて私結構酔っているので」
「大丈夫なんでしょうか」
「さあ、どうでしょう。ただあそこの社長は態度は酷いですが、自分が責められることには滅法弱い人ですからね。こちらが間違えなければなんとかなるでしょう。それにあちらに非があるとなればあの人は社長にこっ酷く叱られます。身に覚えがあって怒られるのが怖いなら自分の不始末は隠しますよ。ただ見ていた人がいますからね、社長の耳には入るかもしれません。だから明日柳井くんから話を聞いて対策は考えます」
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